✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■ 社会そして世界の生活リズムとしての自分のリズム。

9時に2度目の起床。

4時過ぎに寝たから約5時間。

その前は11時半ごろ寝て2時半に起きたから、3時間。

合計8時間。

なんで?

というぐらい8時間なんですよね……もちろん目覚ましなんてかけてないのに、きちんとそういうことを身体が覚えてる。

で、今回のようにインフルエンザをやったり、体調が悪い波のときには、プラスして1~3時間というパターンが完全にできあがっている。

 

この体内リズムはけっこう自分でも驚くぐらいで、会社をやめる以前から腕時計というものをほとんどしなかったのだけれど、そのせいもあってか、日中どこかへ出かけたときなども、おおよそ時間を推定できるし、それがほぼ正確なことに自分でも驚くことがある。

お腹の空き具合とか、そういうことで、感覚的にわかるようになった。

これは退社してから10年、なるべく規則正しい生活をと努力してきた成果のあらわれなのかも知れない。

だからなんとしてでもその良いパターンに戻してやりたいんだけど、この半月のほぼ寝たきり生活は痛かった。そろそろ本腰を入れないと、本当にメシの食い上げになっちゃうから、そのためにも生活リズムを整えたいなあと。

これも長年かかってわかったことなんだけど、以前は編集者時代と同じように、書けるところまで買いて、倒れて寝て……みたいなことをしているうちに、身体に疲れがたまってきて効率が落ちてきて、〆切り直前には徹夜に近い状態が続き、原稿が完成したら数日は疲れが抜けずに倒れていたんだけれども、これは作品の質としても褒められた話じゃないだろうと。

村上春樹さんなどもそうだが、1日10枚なら10枚、自分の能力によって導き出されてきた分量をきっちり同じ時間帯に書き、筆が進もうが進まなかろうが、決めた時間になったらバッと筆をおくという方が、実はトータルとして質がいいものが書けるし、身体の疲れが違うから、次の作品、また次の作品、そのまた次の作品というスポーツで言えばマラソンに似た仕事をしていく上では、いっけん達成感少ないものの、1年なら1年をふり返って見た場合は、結局「亀の方が勝」っているということの方が圧倒的に多い。

たぶんこれは他の仕事にも言えることで、きっと納期だとか〆切りだとかに追われて半徹夜状態がずっと続き、ストレスをなんとか解消してまた次の納期や〆切りに向かうというパターンをとっていると、自分が考えている以上にストレスや疲れが蓄積していき,結局いつかは効率がガタンと落ちてしまうものじゃないかと思う。

しかしそんなことはわかっていても、会社勤めでチームで働いている場合にはそんなことは言えないのであって、やはりこの資本主義のあり方そのものが、もう人間のリズムの限界を超えてしまっていて、それについて行けない人間は「使い捨て」にされているという現実があるんじゃないかと思う。

僕の小さかった時代は、父親がほぼ定時に帰ってきて、子どもとキャッチボールをして遊び、家族といっしょに食卓を囲むというのがあたりまえの世界だったけれども(我が家は父も編集者であったため、そういう世間並みのことは一切なかったが……)、今はそうした個々人の、個々の家庭の幸福なんてものは、一顧だにされないシステムに支配されてしまったのだと思う。

そうした意味では、自己責任で自分の生活パターンを決められる今の生活はとても幸せなのだが、もちろんその代償として、経済的にはとても苦しくなった。

借金だの離婚だのといった特殊事情はあるにせよ、これは多かれ少なかれ、今の若い人たちにも押しつけられている人間の幸福感ムシの社会システムに違いないと思っている。

少し前、共産主義が崩壊したときに、

「資本主義の価値だ」

と叫んだ人々が大勢いたけれども、それに対して少数の識者が、

「たしかに共産主義の作り出した社会システムは放棄されたが、早晩資本主義も自壊するだろう」

と予言した言葉が忘れられない。

 

ここsyonanにはとりわけ自分の生活リズム、パターンを堅持する人間が多いように見受けられるけれども、実は自分の生活パターンから仕事を選ぶという行為は、偏差値社会と真っ向から対立するひとつの自己指標となりつつあるんじゃないだろうかと思う。

ビンボーは正しいと、橋本治氏やら、川上卓也やら、小池竜之介しやら、主張を続けている人たちも多いけれども、僕もこれまでの社会のシステムは、ようやくのことで大きな転換点にさしかかっていると思う。

しかもそれは皮肉なことに、グローバリズムという、一種世界経済戦争のような事象が、必然的に職を失い年収を削減されることを余儀なくされた先進国――この場合、とても先進国と胸を張れないわが日本も、金だけはある、いやあったという意味で含める――の若者たちの目を覚ましつつあるということから考えてみれば、決して絵空事ではないのではないだろうか。

僕は戦後のいわゆる「三丁目の夕陽世代[を過ごしてきて、テレビが白黒からカラーに変わり、冷蔵庫が氷柱を入れて冷やすものから電気冷蔵庫に代わり、各家庭が自動車を持つようになり、多摩川の泡を見て公害を間近に知り、やがて高度成長、石油ショック、バブルとその崩壊、あげくの果ては大不況期に突入して世の中が狂い始め、オウム事件阪神大震災と、なんだか歴史を目の当たりにしてきたのだけれど、たぶんそうやって生きてきた人間の一種の“カン”として、僕の寿命が尽きるあたりから、世界の枠組みや社会のシステムは変わり始めると思う。

それは本当に、ある日いとも簡単に変わってしまうのであって、今の世の中が当たり前で動かないものだと信じている人間にとっては青天の霹靂ともいうべき急展開となって訪れる。

自分自身の生活リズムの話から書き始めたけれども、実は個々人の生活リズムというのものが社会のリズムとどうしようもなくかかわりあっている以上、避けては通れない問題じゃないかと思う。

しかし物事には逆もあるから、個々人の生活パターンを変える動きが大きくなってゆくと、それが一国の社会システムを変えるという力にも――これはトップダウンから来る潮流に比べれば、こころもとないほどはかない力なのだけれども――なりうるのだということを信じてこの世を最後まで見ていきたいと思う。

そしてこのあたりを理解しなければ、メーカーが広告代理店やマーケティングの会社と組んでどんなに英知を結集しようとも、以前のように思ったように物が売れないという難題を乗り切ることは不可能だと思う。

変化の目は確実に出てきている。