✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

出版業を起業した場合、稼ぎは成り立つか①

まずは前段として(エッセイに近いので役には立ちません)。

考えてみれば小学生の時に、全国でおこなわれた本の感想文で自力で2位を取ってから、基本的にはずうっと書いている気がする。

僕の父親は文藝春秋という会社で編集者をしており、主に『オール讀物』というのがフィールドだった。

ちょうどその頃講談社には『小説現代』という雑誌に大村彦次郎さんという方がおられ、父と大村さんとは当時の「中間小説」というジャンル分けがされていた時代に、

「龍虎相打つ」

と呼ばれる有名なライバル関係だったそうだ。

 

そう言えば後年、父のもっとも若い部下であった花田紀凱さんに(さすがにホロコーストはなかったは、やり過ぎだっつーの……)

「『こんなすごい時代小説を書く人がいます』と池田さんに話したら、単発の作品である「浅草・御厩河岸」をひと目見るや、『うちで連載やってもらおう』と即座に決めてしまったのには驚いた(『オール讀物』「浅草橋・御厩河岸」は、1967年12月号に掲載)

と感心したとなにかにお書きになっていたが、その作家というのが、『鬼平犯科帳』の池波正太郎先生であった。

つまり世に長谷川平蔵を送り出したのは、花田さんと我が父だったということになる。

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その大村さんが書いておられることだが、

「永年編集者をやっていると、門前の小僧よろしく鑑定眼だけは、ある程度一人前になるから、これくらいの文章なら俺にも書ける、と変な思い上がりをすることがある。ところが、いざとなれば、眼高手低である。文章と小説は、所詮違うのである」

というのがあって、確かにこれは大いに言えることだと今さらながら思うけれども、その悪いクセが、僕の場合は作家とかライターに対してではなく、同じ集英社の編集者に対して出てしまったのだから、始末に負えなかったろう。

 

小さい頃から、たまたま徒歩圏内に住んでいた海音寺潮五郎先生に可愛がられ、文藝春秋の社長として辣腕をふるっていた池島信平先生の禿げ頭を、父に抱かれながら平手で2,3度ぴしゃりと打ってみせて、父はもちろん周囲を取り囲んでいた文藝春秋社の編集者をして、メドゥーサに睨まれた勇者たちのごとく石と化せられたことはなんとなく覚えているし、

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ルーベンス「メドゥーサの頭部」(笑)

園遊会とかで、どこかの大庭園に撒かれた水に滑って転んで全身泥だらけとなり、大作家先生やそのご家族の前でもってパンツまで脱がされ、人生初のストリップを演じて大笑いされたり(いちばん笑ってたのは最前列にいた吉行淳之介先生だった!)、挙げ句、そんじょそこらの企業の幹部程度じゃ入れなかった銀座のバー「姫」などに連れて行ってもらって美人ホステスにくしゃくしゃになるまで抱かれたり(川端康成先生も確かこの店の常連だったような……?)、父の出身校である新潟三高つながりということで右に野坂昭如先生、左に丸谷才一先生、仏頂面でにこりともしない綱淵謙錠先生がいらしたり、かと思うと中山義秀先生の娘が自宅まで訪ねてきたり(これが後日大事件に発展する……(;゚ロ゚)、べろべろに酔っ払いながら永六輔について

「あいつは何様だと思ってやがるんだ」

と何時間も悪口を言い続けたり(真夜中まで付き合わされる僕の身にもなってくれ……)。

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父の口からは錚錚たる作家の名前がポンポン飛び出していたし、彼らを取り巻いている編集者の姿も子供の目線でよく観察していた。

 

だから集英社に入ったとき、ちょっとしゃべってみりゃ、

(こいつ、バカか?)

と簡単に見抜いてしまう鑑定眼をすでに身につけていた自分は、果たして幸福だったのか、あるいは不幸だったのか。

右を見ても左を見ても、おバカ編集者(失礼😓)

大出版社の編集者など、給料がいいからと入社試験を受けて入ってきたような奴がほとんどで、新聞記者のように世の中を斬りつける江戸時代の浪人たちのような凄みもないし(考えてみれば、漫画以外は、この頃から衰弱が始まっていたのかも知れない)、

「世の中、うまい飯と酒と、女にギャンブル。それだけのもんさ」

と開き直り、ある意味気持ちの良かった「金儲けの権化」電通博報堂社員のような独自のスタイルをも持ち合わせていない人間がほとんどだった。

それどころかむしろ、斜に構えて世の中を拗ねながら見つめる卑怯者の腐臭さえして、これは世の中に害悪を撒き散らしこそすれ、良いことはなにもない存在であると感じていた。

(一世を風靡した漫画編集者たちは別格である。彼らは時代の寵児だったし、実際ものすごい才能の塊だった)

 

後年、大村さんは、『文壇栄華物語』『文壇うたかた物語』『文壇挽歌物語』という優れた三部作を世に問うたけれども、我が父池田吉之助は、

「俺は毎日毎日自分よりはるかに若いくせに、才能は自分の何百倍もあるような作家や作家の卵たちと付き合ってきたんだ。打ちのめされるばかりで、自分には文才は無いと痛感した。だから俺は、本など書かんし、書けん」

と言って、決して筆を持とうとはしなかった。

父は「文壇」の最後の時期をその目で見てきたから、大村さんのような本は、時代の貴重な記録として大きな意味を持ったはずだと思うと、心から残念でならない。

その面では、父は大村さんという虎に負けたわけで(負けた勝ったという問題ではないけれども)、老いた龍は、翼をたたんで地上に降り立ち、洞窟の奥深くへと隠れてしまったのである。

その後それに類した本を上梓なされたのは、最後の文壇の作家である野坂昭如先生であった(『文壇』文藝春秋)。

そんな父についての評価というのは、僕としても非常る難しいけれども、「しゃべってみた感じ」でしか判断はできない。

しかしその眼にさほど大きな間違いはなかったであろうと、これは自負している。

 

だから集英社の諸先輩方の中には、僕のような編集者を見抜く眼を持った後輩を部下にして嘆かれた、或いは呆れかえった人たちも多かったのではないかと思う。

今振り返ってみても、

「俺なんぞ編集者として足下にも及ばない」

と感じた先輩編集者たちは、ほんの10人程しかいなかったことを告白しておく。

また、隣のビルの岩波書店に入っていたら、自分の人生は大きく変わっていただろうにと思う。

恥ずかしながら僕の中に芽が出て育ったのは、大村さんの言うがごとく、対編集者への鑑識眼だけだったと思う。

(続く)