✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

どこまでも続くよ、おバカ編集者の行列😓(2)

そもそもアーティストなんかの世界にヒエラルヒーは存在しないはずである。

先輩であろうが後輩だろうが、芸術作品そのものには何の意味も持たないはずだ。

しかしこれが、片やアーティスト的才能を要求されるし、雑誌作りという地味な面では、お約束に従った言い回しや漢字遣い、差別用語のチェックなど極めて実務的な仕事も要求されるとなると、なんだか自分はどっちなんだかわからなくなる編集者も多い。

 

ここで昨日の大村彦次郎さんの言葉が活きてくるのだが、実務がメインで、ろくな企画が出せない、もちろんヒット作もない人間なのに、人前に出ると、まるで自分がアーティストになったかのように振る舞うのである。

(チッチッチ。俺は君たちのようないわゆるサラリーマンとは違うの。なんせ、文字というアートな世界にどっぷり浸かった生活をしているわけで……)

てな具合で、出版社の内情などほとんど知らない人々に対して、高飛車に出るんですよねえ、不思議なことにそろいもそろって。

腰の低い、決して根拠もないのに威張り散らさない編集者というのは実に数が少なくて、僕はあまり仲がいいとは言えなかった父親にならったことは、

「腰は低く。腰を低く」

としつこいほど言われた教え。これは本当に役に立ったというか、理由もなくフリーライター(最近ではフリーランスという単語の方が定着してきたようだ。ようやく)に威張り散らすというようなことは、退職するまでしないで済んだ。

それどころか、あることで大問題を引き起こし、誰からも声をかけられなくなってフリーランスに神保町の交差点でたまたま出会ったので、

「よ。久しぶりじゃない。元気なの?」

と声をかけたら感激されて……

「僕がいるとわかっていながら、目線をそらす人がほとんどだったのに、池田さんだけはまったく変わらずに声をかけてくれた」

と。

な、何をそんなに感激してるんだよ、ふつうのことじゃんと思ったけれども、これは編集者に限らず、日本には

「失敗した人間を自分より一段低く見る」

という悪いクセがあるようだ。

困っている人間には余裕さえあれば手を貸すのは当たり前だが、ごく普通に友人知人として、変わらぬ会話、挨拶をすることが、そんなに難しいことなんだろうか。

僕がいろいろあって会社を中途退職し、本当にお金で苦労して、これから受験という子供たちをどうやって養おうかと手を出したサラ金のお金を返すのに、彼らはカンパを持ち寄って助けてくれた。

僕もまた、あのときの感激と感謝の気持ちを忘れることはないだろう。

どんな世界で生きてゆくとしても、相手とのつき合い方に損得を持ち出すような人間にだけはなりたくない。

金に汚い連中は、やっぱり心も汚いのである。