■ 8/3(金) ⑤では作家のとるべき道は……
こうなってくると、編集者以上に作家のとるべき道というのはむずかしくなってくる。
過去の成功例にしがみつく編集者、石橋を叩いてわたる編集者が大半を占めるなかで、作家が生き残る術といえば、まずは、
(1)「割り切る」
ことしかないだろう。
僕がめざしていることのひとつがまさにこれで、僕はこれまでのペンネームを、あくまで「生活費を稼ぐためのペンネーム」にして使い捨てようとしている。
10年近く使ってきたペンネームだから、惜しまれることこの上ないんだけど、かといってここに新しいペンネームで登場するほど、させてくれるほど、出版社に余裕がなくなっている以上しかたがないとあきらめた。
この道の行き着く先は、ジャンルの崩壊だと思う。それはいつ訪れるかわからないけれども、とりわけ若い作家や作家になる努力をしている人たちは、ひとつのジャンルで一生押し通すことは、よほど貧乏であることを覚悟するか、あるいは相当の才能があって少数といえども信奉者ができるぐらいじゃないとむずかしいということを覚えておいた方がいいと思う。
だから、自分が物を書いていく上で、いずれジャンル自体が崩壊することを念頭におき、
(どうせなくなる世界だから)
と割り切りながら、石橋編集者の言う通りに黙々と書いていくということが必要になってくると思う。
以前ぼくがキチガイになると書いた理由はここにあって、人格を複数作って、生活費稼ぎのための自分と、理想に邁進していく自分とをわけて考えるぐらいじゃないと生き残れないからだ。
★ただし、割り切る割り切れない以前に、そんな問題意識を持たない同業者もまた多い。自分は小説家というより職人であって、編集者と読者のニーズに応えてなんでも書きますし、ストレスはありませんと公言しているタイプ。
言わば町によくある「なんでも作れる中華料理店」だろう。お好みに合わせて調整いたしますってヤツ。こうした道を選択できる人にとっては、僕のアドバイスはまったく関係がないものだし、以下においてもそのタイプについては触れない。
次に、
(2)「ジャンルをまたぐ」
ことも方法のひとつ。
これは、あるジャンルの浮沈が以前よりはるかに早まっている現状において、大きな保険になると思う。
ただし相当の力量が必要だけれども。
しかしいちどにふたつのジャンルに橋頭堡を気づく必要もなく、あるジャンルでなんとか細々と食べて行けるようになってからでも遅くはない。
その場合、宮部みゆきさんとか、五十嵐貴久さんなんかもそうだろうけど、
(え、次はこのジャンルで書きましたか!?)
とジャンルという言葉さえ越えて、書きたい物を書くというマルチプレーヤーになるのが理想だろうが、これはかなり高いレベル。
このジャンルをまたぐという方法に成功した場合にも、「割り切る」のか「理想を追い求める」のか、「一方は割り切って、一方はあくまで理想を追い求める」のか、それは個々人の判断や才能や分野によって違って来ると思う。
(3)「死んでも同じ分野にしがみつく」
上記とは矛盾するようだけれども、実はこれもひとつの手段であって、ジャンルというのは不思議なもので、いったん崩壊してしまっても、読者の年齢層が変わることによって、また形を変えて復活するということがあるのである。
さきほど例に挙げた大化けした先輩作家さんもそうだけれども、編集者からなにを言われようが、自分が好きな道をつらぬき通した。
そして時代がようやく合致して、大成功を収める結果となったのだが、その間いかに苦渋に満ちた人生を歩んできたか、僕には想像にかたくない。
実際、どうしようもないほど荒れ果ててしまったジャンルのうち、推理小説を例にとるなら、これが「ミステリー」と名を変え、さらにはこれが「狭義のミステリー=新本格派推理小説」と「広義のミステリー」とに分岐して発展し(「狭義のミステリー」の分野は残念ながら滅んでしまった)、東野圭吾氏のような大作家を生み出すこととなったのはその最たる例である。
もっと卑近な例で言うと、これはもう完全に食べるために別ネームで何冊か書いたことのある「仮想戦記」(悪口を言う人は、「火葬戦記」だの「下層戦記」だのと呼ぶ)というジャンル。
これは数年前にほぼ完全に死に絶えた。
もはやすべて書き尽くされ、読者も飽きてしまって、見向きもされなくなってしまったジャンルである。
これがこのところ復活しているというのだ。
このジャンルのいちばん最初のきっかけは、
「宇宙戦艦ヤマトの続編やそれに類した物語が読みたい」
というニーズに始まって、それが
「より詳細なデータに裏打ちされて、なおかつ荒唐無稽なストーリー」
が要求されるようになり、一時はかなりの売れ行きを見せて、出版社も何社か参入したのだが、一社減り、二社減りと先細りとなっていき、しかもそのジャンルの大御所と呼ばれる人たちが高齢でお亡くなりになったり、書けなくなったりしてしまったという要因もあっていったん終息をむかえたのだが、その頃の読者ではなく、十代の読者があらたに読み始めているという現象が起きているらしい。
あまりに卑近な例だけれども、こうしたことは他のジャンルにも間違いなく言えることで、歯を食いしばって続けることによって、知識も頭に入るだろうし(ここで学者になってはいけない)、ジャンルが復活したとたん爆発的に売れるということも十分にあり得るのだ。
■とりあえず今ここで箇条書きにできるのはこの3つが大きいだろうと思う。
もちろんこれ以前に「なにか文学賞をとってデビューする」という王道はあるけれども、それはきわめて狭き門であるし、文学賞をとっても売れなくて消えていく、あるいは僕のようにそのときに売れているジャンルに嫌々でもシフトすることを余儀なくされるケースは珍しくもなんともないことを覚えておいた方がいいと思う。
賞をとることの唯一のメリットは、数多くの編集者に名前を知られ、執筆のチャンスが増えるということだけであって、ではその作品が連続して売れなかったということになれば、そのメリットもおおかた消えてしまう。
さらには「二足のわらじを履く作家」というのが一時期もてはやされたことがあるけれども、その後ほとんど消息を聞かなくなってしまった。
つまり、ビジネスをやりながらお給料をもらい、その余暇の時間に小説を書くという生活が、むかしは別として、今はもう成り立たないぐらい忙しい時代になっているんだと思う。
ビジネスも、大手電機メーカーが多額の赤字を計上したり身売りしたり倒産している時代だから、片手間でできるような甘いものではなくなっているし、その余暇を利用して筆をとるなんてことが、事実上不可能になっているということもあるだろう。
かろうじて生き残っている某二足のわらじ作家も、自分がとった賞に固執するのはやめて、いま僕が依って立つところのジャンルに流れてきているのが現実である。
もし二足のわらじを実現しようとするなら、忙しくない職種だったり、仕事が終わったらぶっ倒れて執筆など不可能だというほどハードではない肉体労働だったり、あるいは公務員の中でも絶対に出世しない分野であるとか(たとえば市民から通報があると、猫の死骸を片づけに行ったり、蜂の巣退治をしたり(^◇^;)←実は生まれ変わったら、そういう仕事について二足のわらじを履いてみたいと思っている)
「書きたい物を書きたい」
という理想は、作家の誰しもが持っている志だろうが(さきほど述べた職人作家はのぞく。彼らは本来の意味での作家ではないから。どちらかというとブルーカラーに近いだろう)、最初からそれを実現できるのは、それこそ本当にごくわずかな人間だろう。
そのためにはやはり大きな賞を狙って、十年でも二十年でも歯を食いしばるか、これはと思う作品を完成させて、出版社をしらみつぶしに歩くしかないと思う。
そして最後に(こうした話題については、いずれまた書くことがあると思うけれども)、
「最初から自分の思い入れや理想を詰め込みすぎた作品は、まず間違いなくボツになるか、よしんば商業出版されるという僥倖を得た場合でも、まったく売れずにお払い箱になる」
ということを肝に銘じておいた方がいいと思う。
そして願わくば、世界の出版ビジネスとは違い、江戸時代から続く版元制度の影響が色濃いこの業界において、唯一の味方となってくれる優秀で、感性が鋭く、カンがいい上に、多少の冒険をしてくれるという編集者と出会えますように。
(なかなかいないんです。これが……西原理恵子さんの話をまた近いうちに)
さて昼寝だ(^◇^;)。
★以上はあくまでフィクション作家について述べただけで、ノンフィクションの場合はまったく違うことをお断りしておきます。