✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■2/24(日) 頭ではわかっていたが、筆が反応しなかったことへの踏ん切り。

ひじき煮を作り終えて、これから夕食。

やはり昼食後はがくんとペースが落ちて、7時前の現在、わずかに4ページ。

わずかにとは言っても不調な時には万々歳の数字なのだけれども。

夕食後どうするか、1ページでも先に進むかあるいはまだ体力を温存しておくか、たぶん暖かいご飯でくちくなったら眠くなってしまうと思うのだが、総ページ数15ページかせいだのだから、まあ良しとすべきか。

毎日10ページ強のペースを維持できるなら、僕の場合は他の量産作家とはちがって、構成や次の作品のプロットを同時に進めることはかなり辛いということを引き算すると、2カ月に1冊はなんとかなるし、

(文庫本はおよそ本文280ページを目安とすればよい)

細切れの時間を使えば、賞狙いの作品を少しずつ書き進めることもできるだろう。

 

2年近いリハビリを終えて、ようやく筆力がもとに戻ってきた感じなのだが、以前書いたように、今年は別ペンネームを本格的に使って、別人格になろうと思っている。

 

早いもので、現在のペンネームを使った年月がいちばん長いのだが、これまでに26冊書いていて、今回で27冊目となるのだが、もはやタイムリミットかなと決断すべき時がやって来たようだ。

なんの決断かというと、これも書いたと思うけれども、いわゆる量産作家レベルの作品を臆面もなく書くということである。

いや、能面のごとく書くといった方がよいかも知れない。

 

どういうことかと言うと、これまでこのジャンルでは、なんとかいい物を書きたいという思いがあったから、よほど金に困った時以外は、生活費を切り詰め、ガマンしてガマンして身過ぎ世過ぎをしてきたのだが、この年になって、大病もしたことだし、限界かなと。

 

知人友人からの借金を返済し、なおかつ将来必ず訪れるであろう病床生活のための金、そして今年大学に入るのかあるいは浪人するのかわからないが、下の娘の学費や多少の遊興費、そして上の息子が僕の弟から借りた学費の返済、そして終の棲家のこと、葬式のこと、そんなこんなを考えると、そろそろ夢や理想の大半を捨てて、収入確保に徹しなければならない。

 

これまでマネはしたくないと思っていたが、量産作家が量産作家でいられるのは、よほどひどい作品を垂れ流して読者に見捨てられない限り、そのレベルで良いという読み手が、少なくとも出版社の損益の最低レベルをクリアしているぐらいはいるということである。

(各出版社の人件費や広告費などによってまったく違って来るが、およそ6割の売り上げがあればなんとか利益が出せる。利益が出せるのならば、書店の棚取りのため、そして取次から振り込まれる金のために、毎月ある程度の出版点数が欲しいわけである)

 

これは考えてみれば当たり前のことだったのかも知れない。

父は僕など足元にもおよばないほどの名編集者だったが、定年後、なんだかテレビの時代物が大好きになってしまい、桃太郎侍だの、暴れん将軍だの、水戸黄門などほとんどすべて見ていたのではあるまいか。

そして見終わると、必ず文句を言うのである。

「最初から印籠を出せばいいじゃないか」

「刀を仕舞うとき、わざわざ一回転する必要がどこにある」

など、しょうがないなと文句を言いながら、翌週またテレビの前でビールの栓を開け、枝豆をお供に画面を食い入るように見るのである。

 

そうなのだ。

作家にもピンとキリがあるように、読者にもピンとキリがあるのである。どんなジャンルでも。

そしていったん気に入ると、次の作品を追い求め、シリーズなど1巻めから全部買いそろえないと気が済まなくなってしまうのだ。

「つまらない」

「今回のは駄作だ」

などと言いながら、じゃあ買わなければいいじゃないかと思っても、翌月の新刊を心待ちにしているのは明らかなのである。

(それで粗製濫造したミステリというジャンルは、さすがに読者が飽き飽きしていったん総崩れとなり、大御所あるいは御大と呼ばれた作家たちがこの世から次々とオサラバした現在、“広義のミステリ”という変形した形でまた擡頭してきたわけ)

 

じゃあ僕も、そろそろそうしようかと。

情景描写も人物描写もそこそこ。

資料も適当に当たるだけ。難しいことは調べないし書かない。

そうして量産することがイヤだったのだが、もう残された時間が少なくなってしまった。

 

だからペンネームを分けるということである。

これまでのペンネームは、そうした気楽に楽しめればいいやという読者を対象にすればいい。そうした読者は、朝キオスクかなんかで買った文庫を電車や昼休みや帰宅してから読み進め、早ければその日のうちに、遅くとも2~3日後には読み終えて、ブックオフに売ってしまうのだから。

たとえ作者が1カ月も2カ月も3カ月も労力を惜しまずに書いた作品ですら、本屋大賞だの、派手な宣伝だのに引っかかってくれない限り、そのレベルの読者はそんなことはおかまいなしなのである。そう、当たり前なのだ。

主権在読者なのであるから。

 

しかしそれではこれまで歯を食いしばってきたことが悔しくてならないし、自分自身が情けない。

だから今年新たなペンネームで、こちらは理想を追う。

 

かえってその方がいい結果が出るかも知れないとも考えている。

なぜなら、常に借金だの光熱費だの税金だのの支払いに追われ、こういう風に書いたら面白いだろうという部分をがーっと書き進めないと収入が間に合わないということの繰り返しだったから、理想が金でつぶされていた面があるのは否めない。

だから、かえって食うための仕事&ペンネームでお気楽に能面のごとく無表情でキーボードを打ち、理想を追い求める仕事&ペンネームで、たとえ1日数行しか進まなくとも、納得がいくまで消しては書き消しては書きを続けた方が、存外と結果がよろしいのではないかという決心がようやくついたのだ。

(いやはや、そうやって割り切るまでに10年かかった……)

 

自分で言うのも忸怩たるものがあるが、僕は書けるという自信があるし、何作かは書いて来たつもりだ。

それを見た大御所の小説家の先生複数から、

「君は書けるよ」

と褒められたことも何度かある。

しかしそれが、中途半端だった。

髪結いの亭主にでもなれれば別だったろうが、僕が選んだのは軽い酒乱の妻だった。

確かにその分引き出しはたくさん増えたから、作家としていい材料をもらったわけだが(これがこの職業の不思議なところで、マイナスがそのままプラスになり得るおかしな商売)、一方で足かせになったこともまた事実だ。

 

だから割り切る。

とても嫌な言い方だが、一種のマシンになろうと思う。

今日、ふと、ずうっと悩み続けてきたことに決心がついた。いや、決心はついていたのだが、実際にそうやって書いてみると、それはそれでできるんだなと、ようやく体でわかったのが今日という日なのである。