✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■ 6/29(金) ⑦明日からせめて誕生日まで、イヤなことがありませんように……

人の誕生日は嬉しく感じるけど、自分の誕生日なんてこれっぽっちもありがたく思ったことはない。

そういう家庭環境に育ったせいが大きいんだろう。なにしろ、誕生会なんて数えるほどしかやってもらった記憶がないから。

父は毎晩午前さまだったし、母はいつも寝込んでいるか父に鬱積した不満をぶちまけるだけだった。

 

だから誕生日などといっても、ふだんとなにも変わることはなく、ただいつものように自分で電話をして、店屋物を注文して、届いたカツ丼だの親子丼だのカレーだのを独り黙々と食べていたという記憶しかない。

 

小学校のそばに大規模団地があって、そこに住む同級生たちは、まるで輪番制でも敷いているかのように、毎月誰かの誕生日をやっていたが、比較的遠くから越境して通っていた僕は、その団地族の輪の中に入ることはついにできなかった。

誕生会だけではなく、草野球でも、サイクリングでも、誘われたことはいちどもない。

母も毎日そんな調子だったから、団地の奥様方から誘いを受けるというようなこともなかったそうだ。

 

たぶんそうした影響もあって、

(誕生日? だから?)

という、ものごとをとても冷ややかに見るようになってしまったのかも知れない。

だから、お誕生日おめでとうと言われても、どこがおめでたいの? となってしまう。

 

中学も高学年になってからは、さらに変わった感じ方をするようになって、誕生日ともなると、

(あ~あ,また年食っちゃった)

という苦痛な思いの方が強かった。

また無駄に歳を重ねてしまった。誕生日なんて来なきゃいいのにと思った。それは今でもあまり変わっていない。

子どもたちが誕生日を迎えるのは嬉しいし楽しいが、自分の誕生日は苦痛にしか感じられない。

 

しかしそれでも願い事はあって、それは自分の誕生日の前後ぐらいは、両親のケンカがありませんようにというものだった。

とにかくイヤなことがなにも起らず、無事に過ぎ去ってくれますようにと願うばかりだった。

 

そしてそれは、今でもあまり変わらない。

嬉しくも楽しくもないけれども、さすがに自分の誕生日や前日に、大げんかがあったりとか、なにかで怒鳴られたりとか、そうした傷だけはつけて欲しくないなと思っている。

記念日に持ち上がったトラブルとかイヤなことというのは、一生ついてまわる記憶となってしまうから。

 

だから毎年神さまに、

「決して誕生日だからと浮かれるようなはしゃいだ真似はしません。その代わり、イヤなことだけは起こさないでください」

と手を合わせてお願いするのである。

 

昨日はちょっとイヤなことがあったけれども、明日から来週の誕生日の週が終わるぐらいまでは、せめて平穏に過ごさせて欲しいと願うばかりだ。

心穏やかに好きな執筆、好きな読書さえできればそれでいい。