✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■11/9(土) 断酒1103日目 アウトプット③の(1)と、もろもろ雑感。

■アウトプット③(だったと思うが……)を書くまでにずいぶんと時間が空いてしまった。

とにかく腰から下肢にかけて痛くてどうしようもなかったから、まったく考える気力も湧いて来ないし、それ以前に机に向かうことすら短時間しか不可能だったのだから……

 

③は②の続きなのだが、②で書いたことの補足をしておくと、

「自分にとってイヤなことを書く」

というのは、一方で、

「良いことばかり書こうとすると、美辞麗句にこだわってしまい、自己満足な小説になりやすい」

ということを意味している。

 

もちろん世の中には、生まれつき小説を書くことに適した脳の構造を持っている人もいるのだが、ごく少数であることは間違いないだろう。

世の中で小説家として食べている人間の多くは、たくさん読み、たくさん書くという行為を、5年、10年、15年と続けているうちに、小説を書く力をみずから獲得した人間である。

 

しかし毎日1行でも書く、書き進めるという行為は、なかなかに出来ることではないし、それが美辞麗句ばかり、格好をつけた文章ばかりであれば、早晩自分の文章に飽きが来てしまう可能性が高い。

これは私論だが、書く行為に携わっている脳細胞とは別に、その文章を客観的に見て記憶しようとする脳細胞が存在しているのだが、毎日毎日美しい単語や表現ばかりで、ストーリーとしてまったく興奮しない作品であることがわかった途端、その読者側である脳細胞は、もういいやとばかりに興味を失い、また別の対象に目を向けてしまうからではないかと思う。

 

秋の日の
ヰ゛オロンの 
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。

 

なんて名調子を毎日とぎれなく書き続けることは相当難しい行為であるし、そのうちに形容詞が足りなくなってきてしまって、美しい単語を拾い集めては文章に挿入していくという、

「他人を楽しませる(あるいは泣かせる、憤慨させる、笑わせるなど……)」

という本来の目的を忘れたマスターベーション的文章に陥って、読者は自分ただひとりなんてことになりかねない。

 

つまり、ある程度の訓練をしてからでないと、文章は盛り上がりに欠けたただの美文あるいは自己満足で終わってしまうおそれがある。

 

それを防ぐために、自分にとってイヤなことを書こうと提案したわけだけれども、具体的にはまずもって

★自分の子供のころのイヤな思い出。

というのがいちばん手っ取り早いかも知れない。

誰にもなにかしら、幼年期には何かを見てしまったとか、思わぬ体験をしてしまったとか、父や母、兄弟、親戚のイヤな部分を目撃してしまったなどの体験が眠っているに違いない。

 

例えば僕で言えば、父の実の姉というのが愛人の男と駆け落ちして、自分の子供3人を起きざりにして、東京に出て来てしまったのだ。

偶然、その愛人の男というのが、我が家からふたつ離れた駅の周辺で水道屋をやっていたのだが、暮らしはきびしかったらしく、その姉(つまり僕の伯母)は、僕の母がいないときを見計らっては家にやって来て、勝手に上がり込み、冷藏庫の中から野菜だの肉だのを勝手に持ち出しては、

「××ちゃん、お母さんには絶対言っちゃだめよ」

と念を入れられて帰って行くのだが、たぶん小学校低学年だった僕には、伯母のそうした行為をやめさせることなどできず、ただ傍観するしかなかったのだが、さすがにそれだけ取られれば、母だって気づかぬわけはなく、それを、

「××さん、来たでしょ! もし来たら、『お母さんはすぐ戻って来る』って言いなさいって言ったでしょ! なんで言わないの!」

と、とばっちりはこちらに向けられ、こっぴどく叱られたものである。 

何しろ父と母はうまくいっていないし、母にしてみればその父の姉が不在中に勝手に家に上がり込むことが許せないばかりか、食べ物まで持って帰るわけだから、そのムシャクシャした黒い怒りの矛先が、手っ取り早く僕に向けられたわけである。

僕も小学校時代は大変なイタズラもので、学校で常に問題を起こしていたものだから、それで母親が担任や校長にまで呼び出されて事情を聞かされたり、僕がいじめた相手の親に謝ったりすることはしょちゅうだったから、そんなことがあれば髪の毛をつかまれて八畳間を振り回されて転がされ、立ち上がっては投げ飛ばされ、昔尺(シャク)と呼ばれていた物差しで半ズボンから無防備に出た太腿をミミズ腫れになるほど叩かれて、挙げ句夕食は食べさせてもらえないというようなことが、幾度となく続いたのであるが、その時の悔しさ、翌朝ミミズ腫れとなった僕の太腿を見て、さすがにひと晩たって冷静さを取り戻して可哀想だと思ったのか、あるいはただの世間体であったのか(おそらくはその両方であろう)、当時男子は真冬でも半ズボンが当たり前だったのだが、長ズボンを履かされて学校に行かされ、ところがそんな時に限って身体検査の日だったり体育の授業だったりして、その無様に赤く腫れ上がった太腿を、友人に冷やかされ、担任に事情を聞かれたが、ガンとして理由を言わず、それがまた担任を怒らせて授業が終わってからも居残りをさせられ、それが僕自身のストレスとなって、翌日嗤(ワラ)った同級生に男女かまわずビンタを食らわせたり、男子の半ズボンとパンツを全員の前で脱がしたり、女の子のスカートをめくるどころか下ろしてしまったりの大暴れをして(何人かの男の子は常に僕の味方だった)、それが大事となって、また母親が学校に呼び出され、その夜僕がまた投げ飛ばされ叩かれて……といった負のスパイラル(-◇ー;)に陥ってゆき、最終的な憎悪はすべてその伯母に向けられ、小学校高学年になった時にそれが爆発し、なにごともなかったかのように法事に出席して飲み食いをし、存分にアルコールを飲んで大騒ぎしていた伯母に向かって、

「この婆ぁ! 死ね! 野菜泥棒! 肉泥棒!」

と、40人ぐらいいた親戚たちの前で大声で叫んだのが、最初で最後の復讐だった。

というのは、伯母はその後まもなくなんらかの病気にかかり(たぶん今から考えればウツ病かなにかだと思う。愛人の水道屋が死んでしまって、肉や野菜を持ち出すぐらい生活に苦しかったから住む家もなくなり(もちろん借家だった)、田舎に帰らざるを得なくなったのだが、捨てた3人の我が子から代わる代わるののしられ、とうとう心が折れてしまったのだと思う。

 

少し長い例だったから申し訳ないけれども、たとえばこんな経験などは、ひとつの物語として、幼いころ捨てられた子供たちの気持ち、伯母のやむを得ざる行動と内心はたしてどうであったのかの心情、そんな姉を常に擁護し続けた父、それに不満をぶつける母が次第にキッチンドランカーとなり暴力的になっていったこと、そして最終的にはどこにも鬱積した不満をぶちまけようの無かった僕のことを、うまく整理してゆけば、なにがしかの物語は作れるように思う。

そしてその物語は、自分の配偶者にも子供にも見せたくはない自分の幼少時代の一面であり、その後常に自分の心の奥底に積もっていった鬱積した感情など、誰にも話をしたくないのである。

 

だからこそ、敢えてそれを文章にしてみる。

ひとつの作品として、手習いの意味で、ヘタでもなんでもいいから(どうせ破り捨てるんだからの精神)何十枚かのストーリーとして結実させてみる。

これは、忘れていた自分の心の深淵をのぞき込める利点があるし、第一に自分の心を掘り下げていくのは、飽きの来ない作業であろうから。

(少なくとも美辞麗句を探して言葉遊びをするより、はるかに長続きすると思う。もちろん、あらゆる詩を読み、自分の心を浄化させ、詩人の心情に我が身を重ね合わせるなどの作業を続けていくことに興趣が尽きないのであれば、それに越したことはない。

しかしそれは、あたかもクラシック音楽の作曲家のごときものであって、ポップなりジャズなり、ロックなりに興味のある大半の人間には、なかなか縁遠いものであろう。

しかしそうした人間たちは、純文学者として、前人未踏の境地に達することもまた可能なのであるが……)

(続く)

 

■今日は嬉しいことに、起きてからずっと、痛みがほとんどない。

だからようやく、少し机に向かうことができた。

さすがに夜8時を回って、発作の時間が近づいてきた現在、太腿と膝辺りに次第に痛覚が広がって来ている気配だが……

 

■今日は夕方『ポテチ』を見た。

 

■3時間ほどうなったり、うとうとしたりを繰り返していたが、ようやくラクになった。

けれどもなんだか今日はもう力を使い果たした感じ。

とは言っても、1日をふり返って見ても、なにをしたというわけでもなく、ようやく洗っておいた2台の扇風機に半透明のゴミ袋をかけて押し入れの奥にしまい、よけておいた手前の段ボールや書類入れを元に戻し、あとは簡単な食事を作ったり、回覧板をなんどか回しに行ったり、加湿器をセットして使い始めたぐらいのことしかしていない。

これが神経痛のもたらす結果だ。

情けないとは思っていても、その思いすら痛みの中に埋没してしまう。

結局今年は、肝性脳症直前に1冊、わずかに1冊書いたのみ。

あとはひたすら病魔との闘い。

こちらを叩けばあちらが首を出し……あっという間に11月。

 

もう慌てない。

来年の春、少し空気が緩んできたころの復活を目指そう。

それまでは、読書だろうが、簡単なメモ書きや数ページの執筆や、あるいは聴きたかったら1日中音楽を聴いても良いし、その日の痛み、病状に逆らわずに体力の維持をはかりつつ、再起を目指そう。

 

今年は結局、いちどもプールに行けず、もちろん海でも泳げず、中古のラケットを落札して壁打ちテニス場にて初デビューを果たそうと思っても断念し、地域のお祭りにもイベントにも、どこにも出かけられなかった。

失意の一年と言えばそうであるが、甘んじてそれを受け入れるしかないという心境。

3年にわたる闘病生活が、来春には3年半になるわけだが、こんな状態になるとは想像だにしていなかった。

人生、なにが起きるかわからない。

しかし、それを知ったことで、一日一日がいかに大切であるか、後戻りの利かないものであるかを、概念だけではなく身に染みて理解した。

それでけで良しとすべし。

必ず死ぬ前に、もういちど自分のエネルギーのピークが来ると信じて、できる限りの手を打っておこう。

 

自分の人生は、ふり返って見れば、最後の最後になぜか辻褄が合うという不思議な人生だった。

それは幼少期から変わらず、絶体絶命という場に臨んでも、誰かが救いの手を差し伸べてくれたり、幸運の女神があわれんでくれたり、深淵の縁に立ちながらも、そこから落ちることだけはなかった。

それを信じて、また明日から生きようと思う。