✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■9/11(水) 断酒1044日目 ①出版エージェントと“売り込み”について軽く。

■夜中目が覚めると足が痛くて(神経痛に間違いなし)、いけないよなあと思いつつ、「リリカ」を1錠服用。

朝目覚めたときには痛みは消えていたけれど、なーんとなく膝頭の奥の方に“うずきのタネ”みたいなものがある。もうなんだか、そこら辺は勘でわかるようになってきた。

少し物を口に入れてから、ぬるいお湯で「茵蔯五苓散」とともに、「リリカ」も服用。

第1次朝食後(って、発芽玄米ご飯半分弱に、しらすと明太子のみ)、その他のクスリものみ、〆はアミノレバン(寿司屋の上がりか!)。

まあいいのだ。

ここのところなんとか、野菜ジュースだけは大量に飲んでいるから。

大量とはいっても、ミキサーにかけるには水分が300㏄以上は必要で(空回りしてしまう)、それだけでも分量が多くなってしまうのだが、中に入れる野菜はさほど多くはない……昨日はニンジン半分、キャベツ数枚、小松菜、リンゴ半分、オリーブオイルをひと垂らしだけだから、大量の野菜を摂取したとはとても言えないのだが、大きなガラスのコップに優に3杯もあると、もうお腹がぼがぼ。

こうなると、野菜繊維は除去されてしまうが、ミキサーよりジューサーが欲しいところ。

 

先日、サンスターの無料お試しセットに応募して飲んでみたのだが(これが乳酸菌の力で無塩なのに美味しい!)、これはジューサーで絞って、そこにニンジンの絞りかすを1/3だけ戻したものだという。

それ以上だと、のどごしその他で、美味しさが損なわれてきてしまうらしい。

これ、毎月定期コースで欲しいなと思ったが、1館250円ぐらいになって目ン玉飛び出たので、やめておいた。

それに、念のため楽天で探してみたら、なんだよ-、楽天で買った方がずうっと安いじゃん……これってサンスター、通販専用でやってないな、たぶん。

どこか問屋に卸して流通させているから、品物が安売りショップに流れて値段が崩れて入ってしまう。

これをやられると、定期コースで10パーセント引きとかやっても、とても太刀打ちできないだろう。

 

それはさておき、なんだか神経痛とも長い付き合いになりそう……

肝臓だの関節炎だの、そんなトモダチばっかり増えてどうするっヽ(`Д´)ノ

 

■ああ、頭にきた!

FC2の受け取り拒否で、着払で出したルーターを戻してもらうハメとなり、740円自腹……

連絡があるまで放っておくし、契約書を交わしたわけじゃないので、電話が来たらプチ戦争(-`ω´-;)。

 

■昨日観た『ヘルプ』、良かったなあ……涙腺ゆるみそうになって危なかった。

ちょっと、今年いろいろ観た中じゃ、『ヤコブへの手紙』と双璧だな……うーん。これはもういちど観たいって感じ。

ツタヤで旧作100円だから、掘り出し物だった。というか、映画館で観たい映画のひとつだと残念に感じた。

やっぱり映画なら映画で、ちゃんと情報だけはとっておかないといけないんだろうなあ。

しかしこっちは資料を読んで、ネットで地方の資料館の情報を探したりしていると、もうそれでお腹いっぱいになっちゃうんだよな……ネット検索。

 

■犬歯が欠けた…… (´ノω・。)uuu...

どうしてこう良いことと、悪いことが交互にやってくるんだろう霊合成人(^◇^;)。

 

■『ヘルプ』のメイキングを観ると、原作のキャスリン・ストケットの原作は、ミシシッピ州ジャクソンの同郷の友人であるテイト・テイラー監督によって映画が撮影されている最中、実はまだ出版化が決まっていなかったことがわかる。

それどころか60社以上のエージェントから断られて、キャスリン自身、

「断りの手紙が届くたびに、追い詰められていったわ」

と回想しているが、しかし60社である!

その情熱とパワーには敬服せざるを得ない。

 

ご存じの通り、アメリカでは、出版社と原作者との間には、かなり組織的な存在として、出版エージェントとうい業界が存在している。

よほどの個人的コネでもない限り、出版社と原作者が直接話をすることはなく(出版社が統廃合を繰り返し、大手グループに複数の会社が存続している形になっているため、どこの誰に本や企画を見せに行っていいかもわからない)、出版エージェントを通さないと、まずは商品化には結びつかない。

エージェントが

「これは面白そうだ」

と興味を持ってくれて、さらに編集者か興味を持ちそうな修正案を出してきて、原作者はそれに従って書き直し、を繰り返してから、エージェントはあらゆるコネクションを使って、出版社に営業をかけるわけである。

 

出版エージェントの数についてはよくわからないが、たぶん数百社はあるだろう。

だから簡単にあきらめる必要はないのだろうが、それでも確かに、60社から断られるというのは、精神的に打撃だろうと思う。

心中察するに余りある。

 

彼女の場合はもしかしたら、同郷の友人であるテイト・テイラーが、前作の『ウインターズ・ボーン』で注目され始めた線から、なんとか1社のエージェントの目に留まった幸運があったのかも知れないが、ともかくその1社が営業をかけた結果、出版社が3社手を上げた。

 

日本ではまだアメリカのようなシステムはないが、ひと昔前だったら考えられないような、フリーのエージェントが飯を食っていけるような状態に、わずかだが、なりつつある。

それはバブル期に一旗揚げようと会社を辞め独立した人々の中から、一種のフリー編集者としての形で活動し始めたグループもいるけれども、もっとも切実なのは、その後の長引く出版不況(しかもいまだに出口が見えない)で、会社がつぶれたり、あるいはリストラされた編集者が、食べて行くにはエージェントでもやるしか方法がなくて始めたグループである。

 

彼らのうち後者は必死に営業をかけてくれるが(前者は大半が姿を消した。僕が知っている人間だけでも、3人が行方不明となってしまい、一人は宅配便で働いて借金を返し終えた 。後者と違って必死さが足りないところが共通していたと思う)、アメリカのエージェントのように大きな力を持っていないから、自ずと出版社の顔色をうかがう形となりがちで、出版社の編集者の言いなりの修正を著者に要求してくることがある。

 

そして売り込みに成功した暁には、相場で印税の30パーセントを要求してくるのが慣例なのだが(もっと安い良心的エージェントもいて、ここら辺はとても曖昧。出版社に直接持ち込みができることといい、これが日本のいいところでもある)、売り込みと同時にフリー編集者として校正にたずさわったり、イラストレーターと打ち合わせをしたりして出版社からもお金をもらう人間がほとんどなので、これが著者にとっては邪魔になってくる可能性がある。

 

というのは、出版社の編集者にしてみれば、直接自分で原作者などをコントロールしたいし、エージェントに編集費なる名目で、けっこうな額のお金を払う必要もなくなるからである。

 

だから、ある程度儲かるようになった原作者は、元のエージェントと契約を切りたくなるのは当然で、ここに日本ではなかなかエージェント制度が育たない素地があると思う。

つまり日本の出版界は、江戸時代から連綿と続く「版元(出版社)と作者」というシステムをほぼそのまま踏襲しているのである。

だからこそ、Amazonなどが殴り込みをかけてきても、版元としては、書店や作者をかばうのが役目のひとつとなっているから、ドライな外資のシステムとはなかなか相容れない関係にある。

(それでも、出版業界の集まりなどにほとんど、あるいはまったく顔を出さず、いわゆる版元同士のお付き合いなどしない新興出版社もどんどん増えている。20年アメリカ後追い説を唱えている僕から見ると、いずれ旧体制を堅持する版元が生まれ変わるかつぶれるかの判断を迫られるようになってくると思う。今でさえグーグル問題で屋台骨を揺さぶられ続けているのは、多くの人々の知るところとなっている)

 

■さて、話題がもんのすごく離れてしまった。

何が言いたかったかというと、自分の完成させた作品を、このキャスリン・スケットという作者は60社に送りつけ(作品そのものではなく、企画書と粗筋ぐらいかも知れない)、それでも、打ちのめされながらも、あきらめずに売り込みを続けたということについてである。

それに比べれば、エージェントに頼んだ作品は別として、僕が自分自身の足で歩いて出版社に営業に行ったのは、わずかに6社。10分の1に過ぎない。

だからこの映画のメイキングを見ていたとき、作品そのものに対する評価とはまた別に、感銘を受け、反省させられることとなったのである。

ましてやこれから小説というフィクションの世界にチャレンジしたいと思う人は、そう簡単にあきらめてはダメである。

たまたまその出版社に合わないとか、たまたま持って行った部署の方針が作品とは違い、実は同じ出版社の別の部署に持って行けばあるいはOKだったかも知れず、さらにはたまたま電話口に出て会ってくれることになった編集者が、実は小説なんてわからない、過去に売れた本の柳の下ばかりを狙っているオバカ編集者であるかも知れないのである。

 

同様に、どこかの文学賞に応募して二次審査以上で落ちたとしても(一次審査で落ちた人は、日本語の使い方など、なにか致命的な欠点があるのではないかと作品をふり返ってみた方がいい。日本語の使い方というか、たぶん構成の仕方がまるでなっていなくて、読者のためではなく、自分の思いばかりが先行して、自己主張をしているだけのとても小説とは言えない作品ではないかどうか)、それで自分はダメだったと、卑下する必要はまったくないのである。

というのは、賞によって違うけれども、下読み連中の中には、フリーのライター(アメリカにおけるライターという呼称は、もっとずっと格上である)としては、実は商業雑誌では使い物にならないような連中が、堂々と“審査員”という肩書きをもらっている場合が少なくないのであるから。

 

よし。俺もがんばって作品を最低2作仕上げたら、出版社まわりをやらなくちゃと反省した次第。