■6/17(月) 断酒957日目(130617) 体調ぐんぐん良くなってきた&『ミザリー』鑑賞について。
■7時起床。昨日よりはるかに体調がいいことを感じる。昨日も前日に比べてそうだったにもかかわらず、やがて脳細胞を薄い膜が包むような感覚になって、寝ては起きを繰り返し、結局少し元気になったのは夜になってからだったから、まだまだ今日一日どうなるかわからない。
ただ、確実に、アミノレバンの栄養素が体に吸収されつつあることを感じる。
洗濯機をまわす間にドラッグストアCREATEのBCAAを飲み、ミックスチーズを大さじ5杯に、卵+ビタミン12で第一次朝食(?)。
目薬を差しながらじっと眼を閉じて休息。洗濯が終わったのを合図に立ち上がって洗濯物を干す間も、好調さを感じる。昨日だったら洗濯物を干すだけでもつらかったはずだ。
昨日はただ、豚しゃぶをつくって食べるという、食欲が戻り始めただけのことだったようだ。
終了後、アミノレバンにて第2次朝食。おやつにゼロカロリーの冷たいゼリーを食べ始めたところ。
■昨夜は何十年かぶりに『ミザリー』を鑑賞。
いや、やはり古典的名作。
スティーブン・キングの筆がもっとも滑らかだったころの作品だが、こうした氏の一連の作品を出してくれる素地が日本の出版社にはほとんどないのは不幸。
わずかにファンタジー大賞などで佳作以上に評価されたものや、超有名作家となってから書いたものしか、この広範囲にわたる(広義の、よりもさらに広く、自由度が高いという意味あいを込めて)ミステリー+ファンタジー+サスペンス+ホラーに手を染めることができないとは……
日本にもひと昔前では考えられなかった出版エージェントが数人出て来ているけれども、これはいつか、日本の作品を英訳してアメリカなど海外に売り込む人間が増えてくる前触れではないかと期待したい。
たとえばだが、『ハリー・ポッター』シリーズ。
それまではさほど有名とは言えなかった存在のJ・K・ローリングという女流作家の作品が、日本の出版社に持ち込まれたとしたら――もちろん魔法の世界という中世文学の伝統を根強く踏襲しつづけている文化的差異はあるだろうけれども――はたして出版されたかどうか、きわめて疑問だ。
たぶんローリングという人が、児童書を何冊か書いたぐらいの日本女性だったらしたら、ハリー・ポッターはこの世で日の目を見ることはなかっただろう。
これが日本の出版界の古くからの弱点であり(人情という良さはあるものの)、現代の入社システムで、昨日までただの大学生だった人間が、入社して試用期間が過ぎたとたんに「第※編集部 編集」とか「Editor」とかいう名刺をもらうという悪しき慣習へと集約されてしまった「ガラパゴス化した」日本の出版界の現状だろう。
この現状に風穴を開けつつあるのがAmazonであり、町の書店には迷惑な話だろうということで当初無視されていた(出版社としてはそれまでお世話になった書店を斬り捨てられないという人情があったし今でもある)書店の集中化、大規模化であろう(ツタヤなどのチェーン展開は、Amazonの動きと連動して起きていると思われるが、Amazonの上陸がなくても、書店がどんどんつぶれている状況では、いつかは国内においても主流になったと思われる。ブックオフや100均ショップが、それまでの日本の経営とはかけ離れていると無視されて来たのと同じように、いったん火が付くと燎原の火のように燃え広がることは間違いないだろう)。
そのガラパゴス化した日本の出版界で、コピーボーイとしての経験もなにもなくして編集者としてあつかわれ(まるでソビエトのテクノクラートのようだ!)、持ち込まれた作品を見たとたん、自分のつたない経験だけで、
「これは日本じゃ売れないね」
などと会議に持ち出すことさえ拒否してしまう新人ばかりを増やしていることは、若い作家の才能をつぶすことにもつながり、やがて出版社離れが起きてくると思うのだが……。
(すでに、大沢在昌氏のオフィスが、宮部みゆき氏、京極夏彦氏といったそうそうたるメンバーを擁して出版界に風穴を開けつつある。http://adv.yomiuri.co.jp/ojo/02number/200811/11toku1.php
僕の先輩がこれに対して、「じゃあこれまでの出版社の人間の仕事って、なくなるってことじゃないか」と嘆いていたけれども、その先輩は努力家で年に何百冊という本を読んで適切な評価をしていた人だったから、「有名出版社は世間で通りがいいし、給料も高い」という理由だけで入社試験を受けたガラパゴス新人よりははるかにマシだった。というのは失礼だけれども、先年定年退職してしばらくエージェントの仕事をしていらしたが、それも店じまいするそうである。それはともかく、書店と電子書籍、Amazonやツタヤ、楽天などに囲まれてそれぞれへの対応に苦慮する日本の出版社の地盤沈下は目に見えるようだ)
■さてその『ミザリー』だけれども、作家役のジェームズ・カーンが出て来たところで、懐かしさいきなりMAX。
タイプライターで原稿を打ち終わり、最終原稿に「The End」と手書きで入れて、煙草を1本、シャンパンを味わってからムスタングに乗って原稿を届けに……と展開が早い。古典も生き残る映画にはリズムの良さが必要なんだろうと、これは小説を書いている僕にも言えることなんじゃないかと考えるヒントを与えてくれたような気がするが、なんせ脳症が治っていないものだから…… (-ω-;)
そしてなんといってもミザリー役のキャシー・ベイツ。
この人が出演する映画を見るたびに、最初に観たのはなんだっただろうと考えていたのだが、どうしても思い出せなかった。
僕の場合、アカデミー主演女優賞を受賞したこの『ミザリー』が最初だったのだ。
優しくて、温厚そうな性格なのに、それが豹変して……という彼女の演じる女の怖さは、ここに原点があったのだった。
最近では『ミッドナイト・イン・パリ』(ロードショーで観てよかった!)でも『私だけのハッピー・エンディング』でも、演技の奥行きにさらに磨きがかかって時に深淵をのぞき込むように感じることもある。
しかしいくら便利になったとはいえ、年をとってパソコンの画面を見るのがだんだんつらくなってきた昨今、あのタイプライターの日本語版がなぜ日本では発明発売されなかったのかと不思議に思う。
パソコンの画面を見ていると頭がぼーっとなってくる場合が多いが、タイプライターで紙の画面を見ながらの執筆は、窓の外の風景と同格の一種風景として、いい仕事ができるのではないかと憧れてしまう。
もちろん、切り貼りが出来ない分、かなりの修行期間を経て、構成に破綻なく書けるようになってからでないと使いこなせないだろうが、これは逆に、ガラパゴス化した編集者を含め、パソコンでコピー&ペーストで簡単に文章を作り上げ、プリンターで印字するとなんだかとてもいい文章を書いたと錯覚してしまう不幸(日本でワープロが普及したころから、各文学賞の応募原稿数が飛躍的に増え、しかも1000枚2000枚といった分量も珍しくなくなり、それまで下読みをしていた編集者が悲鳴を上げて、下読みの下読みとして外部のライターを雇い始めた)と、長短どちらかと言えば、少なくとも作家を目指す人間としては、苦労してでも前者であると思う。
その証拠に、手書きで原稿を書いていた世代(本当にテープや糊で原稿用紙を切り貼りしていた)の方が、ワープロで簡単に文章を作ってしまう世代よりも、はるかに文章の骨格が太くて強い。
それはさておき、今でも大勢いるよなあ、この日本にも。
ミザリー的女性が。
来月娘が遊びに来た時、もういちど観ようかな。
こういう古典的名作を、たぶん彼女は観ようともしてないだろうから。僕が小説家だし、けっこういいかも。
もう1本ぐらい選んでおきたいけど、なにがいいかなあ……