■12/26(水) アナログへの回帰をしようか……もう少し待とうか
Google Chrome のアプリに「OINK NOTE」というのがあるのを知り、それをダウンロードして家計簿を付け始めた。
家計簿をノートに手書きにしていると、なんだかイヤになってきて挫折していたが、これはなんか楽しい。
そう言えば「Every Note」の存在を知ったのもGoogle Chromeがきっかけだった。
こちらも便利で、とにかくペタペタ記事や写真を貼っていくだけだけれども、こちらはやはり紙の視認性にははるかに劣って、蓄積が増えれば増えるほど読みにくい。
きっとなにか便利なアプリやソフトがあるんだろうけど、よく知らないし、探す余裕も気持ちもない。
ほとんど家で引きこもりの生活をしていると、外部との接触はメールが大半、声を聞きたいときだけ電話で十分で、去年は携帯も必要無いと気がついて解約してしまった。
それでいて、まったく支障がないんだから、余裕も気持ちも起こらなくて当たり前。
どこかへ出社して働いていたら、スケジュール管理から、携帯、ノートパソコン、自宅PCなど、どうやったらうまく連携させられるか、あるいはデータをとっておけるか、いろいろ探りながら自分に最適なものを見つけ出そうと努力していただろう。
けれど今の生活では、比較的大画面のPCがあれば、それで検索し、ブックマークし、まとめたいデータを蓄積しておけば、それで用が足りてしまう。
もはやこれは、世の中にデジタルが席巻し始めた頃のアナログ人間以上に、原始人化しているのではという気さえしている。
きっと、中途半端なデジタル人間の悲哀というやつで、最初からデジタルなんかに見向きもしなかった人間の方が、情報面では損をしているかも知れないが、動物としてのバイタリティーは、はるかに上なんじゃないかという気もする。
■もう少し情報機器やアプリのうまい使い方を学ぼうかと思う反面、もはやその勉強時間はアナログにおける勉強に集中した方がいいのではとも思う。
喩えば途中で中断してしまった『史記』の読破や、井原西鶴や近松門左衛門の著作集、父から譲り受けた歴史的仮名遣い(という言い方を丸谷先生は心底嫌っていた)で印字された今となっては日本文学全集。
残された時間が少ないとなれば、仏教やキリスト教の勉強もしてみたいと思うし、とりわけカトリックの幼稚園に入っていたのだから、バイブルもきちんと読んでみたい。
(「♪もろびとこぞりてしゅはいませりー」「てんにましますわれらのかみよ」など、耳にこびりついている言葉や歌も多いが、なにしろ幼稚園児である。なにを祈っていたのか歌っていたのかわかるわけがない。アーメンソーメンヒヤソーメンなどと言ってふざけては、シスターに毎日のように怒られていた)。
なんだかこのところ、アナログっていいなあと思うことしきりで、これが年を取るということなんだろうと、おぼろげながら気がついている。