✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■5/02(木) 断酒913日目(130502)

真夜中に覚醒するも時刻知らず。寝直して7時15分前ごろ覚醒。

お茶を淹れているところ。

 

■今年の連休は、父親と遊びたい子どもたちにとっては最高の天候の巡り合わせだろう。父親の出社日が暦通りとするなら、連休の後半である明日からの3日間は晴れマークが出ているのだから。

そして、少しでも寝て疲れをいやしたい父親にとっては、家族サービスという地獄の日程が始まろうとしている。

まったく、若いうちしか出来るはずがない。子育てなんて。

 

ましてや今後ますます上昇してゆく離婚率のことを考えれば、連休にどこかに泊まりがけで遊びに行き、車ごと渋滞にはまってしまうという「日本のムラ社会」における“平均的”休日のあり方が、だんだん問い直されるようになってくるだろう。

たとえ1泊でも、人気のリゾート地でなくとも、家族全員で出かけられることがいかに幸福なことであるか――(あったか)――それらを各自が学習する良い機会になればいいなと思う。

各自がリュックに持てるだけの荷物を詰め込んで、電車に乗って行ける範囲内で遊びを楽しめればいいじゃないかという考え方が、休日ひとつとってみても、

「みんなと同じ」

である必用はないという、本来当たり前であったはずの考え方に戻るだけで、日本が社会全体を無理矢理作り上げていった延長線上での「休日」という制度がいかに空しいものであり、人々から「自分で考える」ことを奪っていったかということすらぼんやりとでも見えてくる契機とできるはずだ――などとも考えてしまう。

 

■このように(って何日のどこから続くか忘れた)、まず小説家については、

1)なにかの賞を獲得した者。

2)無冠の者。

の大きく2つに分かれると思うが、なんといっても1)こそが小説界の王者であることは事実。

(ただし小説という職業にも時代の流れは極めてゆっくりとだが影響してくるものだと思うし、小説家という職業の中身それ自体がが変質していくものだとは思うけれども、ここではそれらは無視する)

しかも1)と2)とは永遠の主従関係にあるかというと必ずしもそうとは言えず、1)から2)へと転落する者も珍しくはないし、ますますその距離を縮めつつある。

(ますますその力を強めて、絶対的勝者として君臨する1)もいるけれども、その数は小説界が縮小するとともにどんどんとその数を減らしている)。

 その原因となるもっとも大きな理由は「生活費」であろうけれども、昔のように一発作品を当てるだけで一生飯が食えたという時代はもはや小説界には存在しなくなっていることは厳然たる事実。

「文壇」という言葉が死語となった時点ですでにわかっていたことだが、文豪と言われていた小説家たちが、たとえばお妾さんをどこかに囲って、家も土地も買い与え、風流三昧の生活を送っていたなんてザラだったということは、すでに遠い過去のことになっている)

すると1)としては妻子を養わなくてはならないから、たとえ自分の意に染まなくとも、2)的小説家として生きて行かざるを得なくなる。

 

こうなってくると、やむを得ず転落せざるをえなかった1)よりも、かえって2)の無冠の者の方が実収入が多いという逆転現象が起こってくるのは当然。

なぜなら2)的小説家には営業力も必用だし、孤高の存在ではやっていけないから、自然と人脈も広くしていかざるをえない。

さらに、

「もうかる小説家を大事にする」

のは、なにも出版界における特異な事象ではなく、ありとあらゆる業界で通用することだし、急に誰かが倒れたとか締め切りに間に合わなかったとかいうときのための存在をそろえておくということが、出版社にとっては一種生命保険の存在のようなものを意味することになってくるのだ。