✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■1/31(木) 映画のライトノベルス化にちょっぴり恐怖。

「感情過多」と「ライトノベルス化(?)」とは少し問題が違うけれど、まずは後者から話をすると、

“映画でライトノベルス化が図られちゃうと、けっこう未来はちっちゃいって感じになりそう”

で警戒感があるのだ。

 

ニッポンの若者から見たニッポンの特殊性が内輪ウケしてくるような状況って、大きな展望も変革もなにも望めないわけで(望めなくていい。という反論が出てくるのが内向きなんだがなあ……)。

 

かなりむかしの話だけど、僕が所属していた編集部に、マンガ雑誌からひとりの編集者が異動して来た。

まあ豪放磊落なやつで、とてもマンガ編集者とは思えないような剛胆な後輩だったけれども、彼と飲みに行ったある日、

「いやあもうだめでしょ。マンガも」

とおかしなことを言い出したので、「ん?」と聞いていると、

 

「以前は、小説なり映画なりを読んで素養をつけて、マンガを描いていたわけですよ。それが今じゃ、活字は読まない、マンガしか読まない人間がマンガを描くようになっている。それじゃマンガの再生産というか、いやもっとひどいな、お互いのマンガに刺激されてぐるぐる雪だるまのようにまわっていくうちに、球がすり切れて小さくなっていくという感じなんですよね。

今じゃ原作者をつけないと、マンガ家はマンガが描けないんです。一部の才能のある人間を除いたら。

なにを描いたらいいのかわからないというマンガ家が増えてるんですよ。自分が好きだった作品や先輩のマンガ家のマネばかりで、絵はそっくりだけど中身が薄い。だからそれを原作者がおぎなってやらないと成立しないんですよ。

つまり世界観がちっちゃいんです。

昔だったら、手塚ワールドとか、石ノ森ワールドとか、横山光輝ワールドなんて、それぞれ強烈な個性を持った描き手が、自分にしか描けないという世界を描いていたわけじゃないですか。

それが今じゃ、どこかで見たことがあるような作品がほとんどなんですよ」

 

いやあ、酔っておりましたな後輩(そのまま運転して帰っていって、自宅近くでサイドミラーを電柱にぶつけて、高い外車がけっこう大変なことになってたらしい。まだ酒飲み運転がそれほどきびしくなかったころ (-ω-;)。良い子はマネしないでください)。

 

この心配が、彼の嘆きが、映画にまでもたらされたりしたら、小生としてはちょっと哀しいのである。

小説であれば、そこはジャンルごとに“棲み分け”みたいな平和共存ができたものを、全国の子どもたちを巻き込んじゃったりすると、ライトノベルス脳を持った子どもたちがどんどん増殖してしまうんじゃないかと。

これは電車内でいい大人がマンガを広げていた時代より、もっと破壊力の強いものになるんじゃないかという恐怖感、違和感がちょっと頭をもたげて来てしまうのであります。

 

去年の洋画、収穫のある作品はたくさんあったと思うけれども、それを邦画が凌駕した???

どうもにわかに信じられないというか、信じたくないなあという思いでいっぱいなのであります。