■1/20(日) 戦後の「巨艦(大艦)巨砲主義」
軍事力 → 経済力
と名前とルールこそ変わったが、やっていることは実は先の大戦とさほど変わらない。
日本民族という特性を無視して、戦艦大和、戦艦武蔵などを作った日本海軍の思想に、我々日本人の欠点が隠れている。
「日本人は、もっと身の丈にあった小回りの良さで闘うべきだ」
こうした指摘は、驚くべきことに、先の大戦にも現在の経済戦争にも共通した指摘であり警鐘なのだ。
たとえば日本海軍には、源田實(まこと)という航空参謀がいた。
彼は29歳のときに空母「龍譲」の分隊長として配属され、30歳のとき横須賀海軍航空隊分隊長となったが、そのときからすでに巨艦(大艦)巨砲主義を批判し、
「戦艦を一隻作る建造費があるならば、その金で一千機の航空機が製造できる」
と訴え続けていたことは有名な話だ。
それどころではなく、源田氏は戦艦無用論を唱え、
「海軍はその中核を空母と航空機とし、巡洋艦、駆逐艦は最小限の保有とし、潜水艦によってこれらを支援し、戦艦はスクラップにせよ」
とまで言い立てたので、「巨艦(大艦)巨砲主義」が主流であった当時において、彼は気が狂ったとまで言われて圧力を受けた。
(英雄山本五十六などは、この源田案を一蹴している)
なにしろ海軍首脳は、
「戦艦は航空機では沈めることができない」
とかたくなに信じ込んでいたため、もはや敵の主力が戦艦同士による砲撃戦から、航空機主体の総力戦へと移行していたことにまったく気がつかなかったのである。
こうした主張は源田参謀以外にも数多くの士官から指摘されていたのだが(実際に敵と戦った士官の多くは、もっと駆逐艦が多数あれば、例えば事実上最後の戦いとなったフィリピン沖海戦(レイテ沖海戦)において、敵をきりきり舞いさせることができたのにと、大半の航空機を失ってしまった段階において切歯扼腕している)、連合艦隊の首脳部は聞く耳持たず、戦艦大和と武蔵を後生大事に温存し、やがては航空母艦のほとんどを失うハメとなり、終戦を迎えることとなる。
(※もちろん日本も航空母艦を多数所有していたが、戦術面での運用方法に問題があった。航空母艦はあくまで、浮沈戦艦大和、武蔵の護衛的存在としてあつかわれ、ために空母の特性を十分に発揮できずに自滅していったという方が正確かも知れない)
この「身の丈にあわない巨艦(大艦)巨砲主義」は、実は戦後の「重厚長大産業の育成」と驚くほどよく似通っている。