✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■1/20(日) いまの日本の敗戦は、再スタート時点でとっくに始まっていた。

民族の特性というものは、そう簡単に変えられるわけではないと思う。

 

その観点から失敗の本質と将来への展望を考えてみれば、日本は現在の不況で、経済的に負けるべくして負け続けていることへの茫漠とした原因が見えてくる。

 

先の大戦で、日本は西洋列強に追いつけ追い越せをやって来たから、明治以来の東洋の弱小国は、いつの間にか世界を相手に戦えるだけの軍隊を備えるまでに到っていた。

 

しかしすでにこの時点で大いなる勘違いがあって、西洋列強はとっくに別次元へと駒を進めていたということは、多くの識者によって指摘されている。

すなわち、日本が植民地を求めてアジアを侵略していった時点で、アメリカやヨーロッパの先進国は、植民地経営というものが割に合わないものどころか、いずれ将来重い負の遺産となるであろうことを見抜いていた。

 

先進国の考えは正しかった。

日本は現在でも、韓国、北朝鮮、中国、台湾といった国々から、ことあるごとに囂囂(ごうごう)たる非難を繰り返されている。

一方その日本に比べ、早くから植民地主義を進めてきた先進国への非難が少ないのは、長年の植民地経営の知恵を学んでいたからだと思われる。

すなわち日本のように、創氏改名を無理強いしたり、日本語の習得を強制したり、天皇陛下の臣民であることを強要して、それぞれの民族の伝統や宗教などをことごとく否定したりはしなかったからだと思う。

彼ら先進国の狩猟民族は、古代国家の時代から、敵を完膚なきまでに叩いてしまえば、必ずやその報復を受けるということを経験から知っていたのだろう。

 

ここに追いつけ追い越せの立場にたった国家の、哀しい現実がある。

つまり日本は、目標に向かって全国民一丸となって邁進することはできても、世界をリードする目標たり得ず、世界中から袋だたきにあって敗戦という苦渋を舐めた。

 

以来世界の先進国は、他を圧倒するだけの軍事力を追求しつつも、民間を巻き込んだ“より民主的な国家経営システム”、すなわち経済というものの極限を追求し始めた。

つまり軍隊同士の直接のぶつかり合いは、よほどのことがない限り、選択されなくなっていった。

直接ぶつかり合うのは、軍事力ではなく、経済力となったわけである。

 

敗戦によるどん底から這い上がった日本は、ここにおいてすでに国家的目標を失い、とにかく豊かになれればそれでいいと、わき目もふらずに経済力の追求に明け暮れた。

ここにおいて、過去からなにも学ばない、学ぶより先に豊かになることに目を奪われていたから、「第2の敗戦」は、その再スタート時からすでにカウントダウンされていたといってもいいのではないかと思っている。

 

それを説明するのにもっとも適していると思われるのは、先の大戦で日本がつらぬいた戦艦の設計・建造方針である「巨艦(大艦)巨砲主義」だった。