■ 8/3(金) ②衝撃の、というより耳をふさいでいたかった鋭い指摘。
さきほどの佐々木氏の論考は、あくまでフリージャーナリストに向けられたものだが、この問題は我々フィクションにたずさわる人間にもあてはまる。
友人もそう思ってメールをくれたらしい。
つまり、
「悪貨は良貨を駆逐する」
ならぬ、
「多数の頭の悪い読者は、少数の優れた読者を駆逐する」
という、佐々木さんそんなはっきり言っちゃっていいの!? ってな指摘なのだ。
僕が以前から抵抗している、
「年に15冊も、人によっては20冊も書けるわけないし、書いちゃいけない」
という問題は、現実には読者のニーズがあるからこそ起きている問題なのだ。悔しいけれど。
つまり、書き捨て、書き殴りでもしない限り、プロットの組み立て、キャラクターの設定、資料調べ、執筆、推敲、著者校正という一連の作業をやりながら、月に1.5冊前後も書けるわけがないのに、書いている作家は想像以上に多いのである。
どこかで手抜きでもしなければ、1冊およそ480枚弱の文庫を、1.5冊分すなわち700枚も書けるわけがないのだ。どう考えたって。
物理的に不可能な以上、
1)キャラクターの設定やサブキャラクターの配置はどのシリーズもほぼ同じ。
2)ストーリーはどこかで読んだことのある物の焼き直しで、新しい発見や問いかけ、深い感動などなし。
3)資料は調べない。
といった姿勢をどこかでつらぬいているはずである。
これは間違いなく、粗悪品の再生産を繰り返しているわけで、
「いや、オレのは大量生産だけど、ひとつひとつが心に残る作品だ」
などと反論できる作家はまず9割方いないだろう。
もちろん残りの1割には、それだけの文章を書いても面白いという天才は存在する。
たとえば一時月に1000枚(!)書くことをノルマにしていた北方謙三氏や、栗本薫氏、時代小説界で言えば佐伯泰英氏などがいらっしゃるけれども、この人たちの作品は、好き嫌いもあるだろうが、決して書き殴りにはなっていない。
天才というより超人と言った方が近いかも知れない。
しかしそれはごく少数の例外。
多くの作家はヒイヒイ言いながら、あるいはなにも考えずにマシーンと化しながら、粗悪品を大量生産しているのである。
読者――編集者――作家という図式は、少なくとも僕がいまメインとしているジャンルにおいては、たぶん編集者の側から崩れた。
出版不況で売れ行きが第一となってしまってから、編集者は読者のニーズばかりを気にするようになり、そこには編集者としてなんの矜持もなくなってしまったのだろうと思う。
もちろん売れ行きが第一なのはどんな商売でも同じだろうけど、商売が順調なときには、
「これが売れれば新機軸となる!」
という意気込みがあったにもかかわらず、不況ともなると、
「これなら絶対にハズレがない」
という、編集者という商売の醍醐味をも捨て去った安全策だけに流れてしまう人間が多くなったことは間違いないだろう。
この前僕のプロット&第1章にダメ出しをした出版社も(別にそれが最高にいい作品だったと恥ずかしいことを言うつもりはない)そうした姿勢をつらぬいていて、それがために大きな魚をなんども逃がしたにもかかわらず、それでも石橋をなんども叩くような出版姿勢をつらぬいている。
たとえば、これはバレちゃうからあまり細かくは書けないんだけど、僕よりひとまわりも上の先輩作家がいらっしゃった。
ところがこの方、同じジャンルのなかでも特殊とも言うべき題材を得意としていて、それがぜんぜん売れなかった。
あらゆる出版社で出版しても、まったくダメ。ダメどころか出版社の採算分岐点を下回ってしまって、連続して赤字を出す始末。
「この作家はにどと使わない」
というような評価にかたまりつつあったとき、新たに参入した出版社から本を出したら大ブレイクしてしまった。
あれよあれよという間に売れてしまい、重版を重ね、それまで売れなかった過去の作品まで売れるようになってしまった。
出版界では一流の会社からも下にも置かぬあつかいをされるようになり、新聞広告でも芥川賞作家をしのぐようなスペースを占めたこともある。
しかし作家としての誇りがあるから、自分を使わないと言った出版社で仕事は一切しない。
それまでどんな悪口を言われようが、食うために頭を下げながら、自分の道をつらぬいてきた。
しかしそれを育てようという編集者は、僕の知る限り中堅出版社では皆無だったのである。
それどころか……
(また長くなったので、続く)