✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■ 8/3(金) ①朝からちょっと衝撃的だったブログ。

断酒607日目。

かかとの痛み引かず、階段の往復はもちろん、散歩も断念。

少しずつでも治りかけていたヒビが、また開いてしまったんだろう。

ネンザと違って膨れはしないが、直接的に痛みが響いてくる。

病院に行ってもせいぜい湿布だから、今日はDVDを返しに行くついでに、かかと用のサポーターか、包帯を買おうか……。

しかし目から脚のつま先まで、満身創痍。

よく独りでがんばってるな、オレ。褒めてつかわす。

 

ははあっ! お褒めにあずかりまして……って朝からアホか。

昨夜友人からあるブログを教えられ、ちょっぴりショックな気分に。

作家でジャーナリストの佐々木俊尚氏のブログなのだが、「なぜフリージャーナリストは震災後に劣化したのか?」と題された文章の中にこんな記述がある。

少し長いけれども、

 

2000年代後半からこのコミュニティが崩壊し始めると、このプラスの部分もマイナスの部分も一斉に消えてなくなってしまった。オープンな場で仕事が評価されるようになり、派閥やセクショナリズムが意味を持たなくなったのは良かった。マイナス部分が消えたのである。しかし一方で、「プロの評価」というプラスの部分も消えてなくなった。その結果生まれてきたのは、「読者の評価」だ。つまりプロの世界での評価システムが消滅した結果、フリーのジャーナリストやライターは直接読者と向き合わざるを得なくなったのである。

 今までは、以下のような構造だった。

(1)書き手 → プロの編集者(出版社) → 読者

 これがダイレクトに以下のような関係に変わった。

(2)書き手 → 読者

 これは先にも書いたようにオープンな場で読者とダイレクトにつながるという意味で良いことなのだけれども、一方で容易に衆愚化してしまう。これまでは読者が俗悪で勧善懲悪なくだらない記事を求めたとしても、間に入る編集者が「いや、これは読者には理解されにくいかもしれないが、いい記事だから」と評価してくれていた。しかしこの中間の編集者がいなくなったことによって、書き手は直接読者のニーズと向き合わなければならなくなる。

 これは簡単なようでいて、落とし穴だらけの難しい関係性だ。読者の中には優秀で理解力のある人もたくさんいるが、一方で頭が悪く俗悪で単純な構図しか理解できない人はそれ以上にたくさんいる。書き手はそれらの読者のセグメントを分けて判断できればいいのだけれど、ことはそう容易ではない。俗悪で単純な記事を書いたとたんにページビューが跳ね上がったり、そういう内容の本が売れたりしてしまうと、「これが読者の求めているものなのか!」と思い込んでしまって、明後日の方向へと突っ走ってしまうということになるのだ。」

http://www.pressa.jp/blog/2012/08/post-3.html

いやあ、ここまではっきり言っちゃっていいの、と思うぐらいバシッと書いてくれちゃってる。

長くなるので、また次の更新にて。

いやあ、下界は暑いのう。