✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■ 7/18(水) ①とりわけ激動の1年間だった。

断酒581日目。

夏はビールがうまいけど、翌朝流れるような、しかもイヤな 汗で目が覚めることもなくなった。

早いもので、引っ越ししてからあと10日ちょっとで1年……ええっ! て感じ。

一生なんてあっという間だなと、先人たちが口をそろえて言って来たことが身をもってわかるようになった。

世の中に自分の足跡を残すなんてことはできそうにもないけれど、大きくなった子どもたちが将来、

(お父さんような生き方もあったんだな)

と、せめてなにかの役にぐらいは立ちたいと思う。

 

去年の今ごろは、ようやく住むところが見つかり、同じ神奈川県は藤沢市内の別の団地に仮契約をすませたころだったと思う。

その少し前、7月いっぱいで更新が切れるという段階になって、まだ住むところさえ決まっていなかった。

こちらから連絡して、家賃が1カ月遅れてしまいますと2度連絡をしたことがあるのだが、それがブラックあつかいになったらしい。保証人会社からぎりぎりになって断られてしまったからだ。

 

その時は、もうホームレスになるか、ついに筆を折ってどこかの住み込み店員、あるいは作業員となって暮らすしかないかと悩みに悩んでいた。

緊急避難先として、元妻の家(って、ローンは僕が払っていたんだけど……)に、2年だけ住まわせて欲しいと屈辱感いっぱいでメールしたのだが、

「そういうわけにはいきません。2世代なんですから、退職したうちの父親ともいつ顔を合わせるかわからないんだし、迷惑です」

と断られてしまった。

1年の猶予があれば、どこか住むところを探せるかも知れないし、2年たてば上の息子がさすがにもう留年しないで勤め始めるだろうから、保証人として立ってくれるだろうと思ってのことだった。

 

しかし結局八方ふさがりで、ついに住む場所のあてさえなくなってしまい、住み込みでの仕事探しをしようかと思っていた。

銚子の方じゃ、干物を作る工場が若い人から臭いと敬遠され、違法滞在している中国人に頼らざるをえないというテレビ番組を見たことがあるし、さいわいカタコトの中国語は身につけていたから、中国人と一緒にアパート暮らしでもやむをえないと考えていた。

 

あるいは中国から来日してこちらで結婚した社会科学院のエリートに頭を下げるか、あるいは北京でホテルの部屋と最低限の食費をあてがわれ、共産党のために翻訳などの仕事をしている日本人たち(会ったことはないが、朝日新聞のOBもけっこう多いと聞いていた)に頼み込んで、中国に渡るか、そこまで考えていた。

たぶんホームレスになるよりは、向こうで働いていた方が小説を書き続けるチャンスはあることは間違いないから、大嫌いな共産党の雇われガイコクジンになっても仕方がないかというところまで悩んでいた。

 

もしその時、僕のことを心配してカンパを集めてくれた元の会社の先輩が、引っ越し費用から家賃から敷金からを出してくれなかったら、本当に大陸浪人になっていた可能性が高い(もちろんこれもカンパではなく、死ぬまでに借金として返すつもり)。

(しかし同じ日本人より、台湾も含めて、中国人の方が頼れるなんて、なんていう我が交友関係(^_^;)

 

それが曲がりなりにもこうして日本国内に住むことができ、しかも毎日海風を感じながら、最高の執筆環境に身をおくことができた(実はエアコンのことを考えると、雪があまり降らずに、かつ寒い地域の田舎という選択肢もあったのだが、出版社との打ち合わせなどを考えると、たぶんそのまま埋もれてしまう可能性があったから、それは次善の策としていた)。

 

それから1年。

ほぼ闘病生活と、借金を原因とするカード会社との裁判で費やしてしまったが、それが今の自分のバネになっていることも確か。

 

これが本当に、自分の短い人生の、最後の機会だと思っている。

まだリングに上がれる僕は、本当に幸せ者である。