✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■ 7/4(水) ⑤職業作家にどこか徹しきれない僕のジレンマ。

ふうむ……。

なーんにも考えないで書き始めたけど、やはり最初にプロットだけ考えるのは、論理的思考が弱点の僕にはムリだなあ。

 

本文を書いて、それをプロットに反映して、そこから思いついた物、登場人物、時代背景、その他を本文にフィードバックしていくのがいちばん早い。

 

結局、プロットにせよ本文にせよ、かなりの分量を書いて、もう思考だけでプロットが完成できるという段階まで時間がかかるということ――つまり1冊分書き上げてから渡すのとおんなじってことになる。

 

以前数人に聞いたことだけど、同業者で多作している人間は、プロットは思いつきで適当に仕上げてしまい(編集者が気に入って、企画会議で通りやすいように)、それで面白い作品ができあがったら、プロットとぜんぜん関係なくても通っちゃうという力技で書いているそうだ。

 

しかし、どこか根がまじめ過ぎる僕は(過ぎたるは……をまさに地でいってる)、きちんと自分も相手も納得できるものしか書きたくないという気持ちが根底にある。

 

で、ふり返って見ると、たいていダメ出しが出たものは、きちんと書いたプロット。

逆にオーケーサインが出たものは、ノリで思いついてテキトーに作り上げちゃったプロット。

 

読者の中にも読み捨てでいいと思っている人間が多いから、後者のテキトーなノリの方がウケが良かったりする。つまり売れ行きが良かったりする。

でも、そうした類の作品は、毎月次から次へと発売されるテキトーなノリの中に埋没してしまって、あっという間にブックオフ行き。

半年1年持つようなものは少ない。

 

ということは、生活のことを考えたら、やはりテキトーなノリで書いて書いてそのジャンル自体がダメになるまで書き続けること。

それで読者の大半が離れてしまおうが、ぺんぺん草が生えようが、知ったこっちゃないということにならざるをえない。

その方が、金が儲かる仕組み。

 

死んだ父が年をとってからテレビの時代劇にはまり、

「なんで悪人を斬った後、わざわざ毎回くるりと回って刀をおさめるんだ。そのままおさめりゃいいじゃないか」

とかブツブツ怒り、苦笑しながらも毎週見ていたという(-◇ー;)、結局読者の多くは、読んで愉しむのにあまり肩肘の張らないシリーズをどんどん読み捨てていくという姿勢と同じことなんだろう。

 

そうするか。

職業作家から一生抜け出すことはできないだろうけど、それしか食う道がないとなったら、

「きちんとした物を書きたい」

という理想を捨てるか、あるいはテキトーなノリで書くのと並行して、毎日数行ずつ愉しんで書いて、仕上がったらどこかの出版社の書き下ろしではない部門に営業にいくか、あるいは賞に応募するしかないということなんだろうな。

 

とっくにわかりきったことだったけど、病気で1年半も思うように書けなかった間に、自分の寿命が残りそう多くはないということを実感したら、やはりきちんとした物を1冊でも世に問いたいという気持ちが復活してしまったのだろう。

 

いやいや、それは夢。ただの絵空ごとの理想に過ぎない。

現実は金。

読者の多くもそれを求めている。

きちんと読んでくれる読者は人数が圧倒的に少ない。

つまりきちんとした物を書くには、金をあきらめなければならないということ。

でも、僕にはもうこれ以上やせ我慢をする余裕はない。

 

金を借りられるところからはすべて借りたし、多額のカンパもしてもらった。

出世払いということで、美味しい物もたくさんおごってもらった。

まずは死ぬまでに、その金と恩を返さなくてはならない。

理想は理想。

いちばん後回しだ。