✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■ 7/1(日) ②朝の雑感。

 

断酒574日目。

5時40分頃起床。やや質が悪く、なんだかもたもた。

6時半から始めたいつものストレッチその他、3時間近くかかって終了。

まあ、昨日スロートレーニングによる筋トレをやったので、背中と腰をほぐすためにじぃっとポールに乗って脱力していたせいもあるけれども。

曇り空を見ながら、壁によりかかって、ハーブティーを愉しむ。

こうしてあっという間に今年も終わるんだろう。

 

 

政治不信、次の選挙でどの政党に入れていいかわからないという怨嗟と焦慮の声があふれている。

結局、民主党も自民党と同じだった。いや、自民党より悪いと。

 

しかしそんなことはとっくにわかりきっていたはずのことじゃないかと、なにを今さらと思ってしまう。

僕が編集者をやっていた時代から、この国を動かしているのはあくまで国家官僚であり、政治家は自分たちの隠れ蓑にすぎないということを主張しつづけていた。

こうしたマスコミ人も少なくはなかったけれども、やはり話の主流は、

「次はどこが勝つか」

という野次馬的発想に流れてしまっていた。

 

「主権在官」

これがこの国の本質であり、核心である。

このことを抜きにして、政治家批判をしても、まったく意味がない。

 

明治維新で薩長土肥その他の下級武士が、この国を治め、西洋列強に追いつき追い越すを果たすために、官僚機構を作り育て上げた。

当時の指導者はみな武家の出身かあるいはその子、孫ぐらいだったから、暗殺なんてことはまだ平気で行われた時代であり、官僚としても命を賭けてまで、彼ら武家の末裔と争う力も気概もなかった。

 

ところが侍階級にとってかわったのが、ご存じの通り軍部である。

彼らは自分たちこそ救国の志士であり、侍になぞらえていたからこそ、切腹だの介錯だのを、重要な儀式として受け継いでいたのである。

 

ところが戦争にまけて、すっぽりと軍部が消えてなくなっしてまった。

残ったのは国家官僚たちである。

在日米軍としても、この国を民主化してゆく過程において、国家官僚を利用せざるをえないという事情があった。

やがてその在日米軍も、日本の統治を日本人にまかせて、本国に引き返していった。

 

残ったのはなにか。

何者にも支配されない、何者の命令も聞かなくてよい、いわば悲願のフリーハンドを得たと言ってもよい官僚組織だった。

 

ところが日本は民主主義国家であることを世界に標榜したのだから、自分たちが前面に出て国を支配するわけにはいかない。

形だけでも選挙をやって、

「国民に選ばれた政治家にコントロールされる官僚」

という姿勢を見せなければならなかった。

(続く)