✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■ 昨日の自分は、今日の自分とは〝別の生物〟。

知っているとは思うけれど、人間の体は10年ですっかり新しくなるという。

細胞の寿命を考えると、およそそのぐらいで、細胞という細胞のすべてが新しいものに変わるというわけ。

ということは、僕たちはこの世に生を享(う)けてからすでになんどか細胞の入れ替わりを経験していることになる。それはつまり、

「10年前の自分と今の自分とは、まったく別の生物である」

ということを意味する。

となれば、考え方から性格から違うものに変わっていたとしてもおかしくないわけで、我々はそれを

「成長したから、経験を積んだから、変化したのだ」

と説明しているけれども、そうした個々の問題ではなく、純粋に生物学的な変化だととらえることもできるのではないかと思う。

となれば、肉体的な変化だけでなく、頭脳面・精神面での変化があっても当然で、そうした〝新生物〟として「脱皮」した我々は、体のどこかに染みついたこれまでの学習や記憶を受け継ぎながら「進化」してゆくのだと思う。

さらに言うならば、我々は夜寝て朝起きたその瞬間から(実際には24時間ぶっ通しで)、すでに次の生物へと生まれ変わる準備を始めているといっていいだろう。

つまり、昨日の失敗はもうすでに自分とは別の生物がしでかした問題であり、今日の自分とは関係がないとも極論することができる。ただ、相手を傷つけたこと、あきらかに失敗したことだけは、きちんと記憶として客観的に処理し蓄積して、次の〝新生物〟にバトンタッチすればいいのではないだろうか。

 

そういう風に考えれば、

(ああ、今日もまたやっちゃった)

とか、

(なぜあの人は今日も自分に意地悪したんだろう)

とか言ったことを、少しはラクに俯瞰し、客観視できるんじゃないだろうか。

毎朝自分は生まれ変わっている――たったそれだけのことで、ずいぶんと気持ちがラクになることがある。

万能薬ではないけれども、捨てた考え方ではないと思う。

「時がすべてを解決する」

のではなく、

「細胞がすべてを解決する」

と切り替えてみると、自分が偶然この世に生まれ出た、ただのちっぽけな一個の生物に過ぎないということを意識できるのではないだろうか。

これは僕が経験的に発見した物事のとらえ方です。