✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■ たぶん大きな変革の波が迫りつつある。

日経ビジネスオンラインに載っていた養老孟司氏と、建築家で東大教授の隈研吾氏との対談から――

 

  • 養老:NHKの番組で岡山県の高齢者だけの限界集落を取り上げていたのね。75歳以上の人だけが住んでいる集落が、岡山には720ほどあるそうなんです。
  • :そんなにあるんですか。
  • 養老:そう。それで俺が思うには、限界集落が720もあるということは、そこがいかに住みやすい良い場所か、ということなんです。マスコミは、年寄りばっかりでかわいそう、という取り上げ方なんだけど、そんなのは勝手な解釈に過ぎないですよ。だって、70代のおばあさんが3人で段々畑を作ってさ、それでイモを収穫して、子供に送ってやるとか言っているんだよ。それっていい暮らし方じゃあないですか。限界集落とか言って問題視する前に、どうしてそういう生き方を奨励しないのかね。
  • (中略)
  • :高齢化社会をネガティブに捉える意識については、若い人間を中心とする20世紀アメリカ型の社会システムが、日本にも組み入れられてしまったことが大きいです。端的な例が住宅ローンで、若い人に住宅ローンを組ませて、ずっと働かせ続けて、使い捨てにするという社会システムは、まさしく20世紀アメリカの発明でした。
これはけっこう大きな問題というか指摘で、庶民からいかにお金を吸い取るかというシステム作りに、日本の経済界も、役人たちも政治家も載っかってしまったわけで、これが偏差値社会という副産物をも作り出す原因となったんですよね。
だから、小さいころから親に、とくに世間体を気にするタイプの母親に、
「いい学校に入って、いい会社就職しなさい」
と言われ続けてきた僕をふくめた子どもたちの多くが、高い偏差値の学校、高い偏差値の会社、そして高収入というレールが唯一無二の価値観としてすり込まれてしまったわけ。
とりわけ画一的で均質性を好む日本人は、あたかもいったん採り入れたら死んでも離さない的なムラ社会的システムと結合してしまって、一種のイデオロギーとしてまで昇華してしまった。
いやはや、グローバリズム発祥の地である欧米だって、日本ほど単一的な価値観一色に染められた国は他に類例を見ないのではと思われます。
 
ところが、さきほども書いたように、皮肉なことにグローバリズムという最先端の集金システムが構築されつつある現在、そうしたムラ社会的イデオロギーが破綻し始めた。
なぜなら究極の目的であったはずの「いい会社」が、次々と経営に行き詰まり、それどころかいつつぶれたっておかしくないという状況に陥ってきた。
 
また同時に、「個性の時代」という陳腐なスローガンと裏腹に、自由なライフスタイルだと思い込んでいた生活パターンそのものが、オトナによって押しつけられた既製品であることに、勘の鋭い一部の若者たちが気づき始めてしまった。
 
つまり、ビンボーは悪であり怠惰の象徴であるといった悪しき概念が、
「ビンボーでもいいんじゃね?」
「金かせいだって、病気になっちゃおしまいじゃね?」
という、本来存在していたはずの価値観の多様性が復活し始めてしまったのであります。
いや、ほんとに皮肉。
システムが進みすぎると、それについていけない人間がどんどん数を増やし(ついていけないというのも悪いことでもなんでもなく、生まれながらにして生き馬の目を抜くようなビジネスすなわち金儲けに向いていない性格の人間がいたってまったくおかしくないわけで)、置き去りにされた形のそうした人間たちが、人生の選択肢に正解はないという当たり前のことに気がつき始めちゃったわけであります。
 
波は迫っていると、僕は思います。