■ 11/7(水) 霧の朝
断酒703日目。
記事を分類してみようと心がけ、日記をその日の終わりか翌朝にしようかと思っていたが、ここまで昼夜逆転どころか昼夜ぐしゃぐしゃの状態になってしまうと、すべてがムダな気がしてきて、とにかく思い立ったときに書き連ねればいいやと開き直り。
二度寝してから起き上がって、体のだるさを押してテレビ体操。
今日は一日中太陽マークで、溜まり始めた洗濯物を洗わなきゃと思っていたのに、体操を終えても明るくならない。
おかしいな、天気予報はずれかなと思いつつ、ベランダに出てみると、霧。
朝霧というのか、海霧というのか、かすんで遠くが見えない。
こんな朝景色は、こちらへ引越してから初めてのこと。
海霧(うみぎり、かいむ)というと夏の季語だし、辞書には
「主に移流霧のことを言う」
とあって、
「温暖多湿の気塊が、低温の地上や海面を移動すると、その下層部が冷却されて発生する霧」
ということらしい。
さらに気象用語では、視界1キロメートル以上が靄(もや)、未満が霧と分類されるそうだが、どうにも風情がない。
見ればけっこう地面が濡れているから、これは雨が霧雨に変わったものかも知れない。それなら秋の季語に変わるが、こんどは海霧と呼ぶのは正確には間違いということになる。
(ちなみに霧雨とは「多数のきわめて細かな水滴が、低く垂れ込めた層雲や霧からかなり一様に降下する現象。ぬか雨のように降る現象」とあるが、雨のように降っているようにも見えない。お天気の言葉は本当に難しくて、覚えきれない。昔の表現に、現代的知識の気象用語が加わってくるから、よけい混乱する)
江戸時代には霧と言えばはっきりと秋の季語であり、説明もすっきりしている。
「立(たつ)は霧なり。降(ふる)は雺(もや)也。天気下り地応ぜざるを雺といひ、発して応ぜざるを霧といふ。皆霧の変ずるものなり。
秋はことに盛んにして、朝夕にあり。はなはだ多き時は草木を枯らす。(略)きり雨は小雨のごとくふる霧をいふなり」(『改正月令博物筌(せん)』)
とある。
ここからがいい雰囲気になるのだが、
「葉月(新暦では九月上旬から十月上旬にあたる)はつかあまり(つまりこれで十月上旬から十一月上旬といったころになるだろう)、秋のけはひのなつかしくて、例のすみだ河のほとり、石浜のいほりに行きてやどりぬ。有り明けの月のにほひも、霧立ちわたる暁のさまも、所がら世に似ぬものから、ここは絵目のそぼ降る日なむ殊にあはれは深かりける。もとより萱(かや)ふけるいほりなれば、音だになくて、軒のしづくの三つ四つ落ちそむるより、籬(まがき)の萩(はぎ)の下葉の色づきたるが、ほろほろと散るもあはれなり」(『うけらが花』)などとある。
さらに句を挙げるならば、
朝霧や蓮の白帆も見えかくれ(堀麦水)
なんていい感じだなとおもうのだがしかし。
霧が消え去る兆候はまったくなし。洗濯機回していいのか……?
だるいのでこれから朝風呂。朝霧風呂と命名しようか。コントレックス持って。