✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■5/29(水) ②

原子力規制委員会のメンバーに選ばれたFくんは、僕の中学高校の同期で、かつ浪人時代には彼は早稲田予備校、僕は早稲田ゼミナールと長い付き合い。

彼は、まあ、言ってしまえば恋愛の悩みでつまずいて、結局僕は一浪して早稲田に入ったが、彼はもう1年浪人して東工大に入り、博士課程まで終えた秀才。

いやあ、あのときあんなオンナに引っかからなくてよかったよFくん(^◇^;)。

似たようなことを当時の彼にアドバイスしたら、

「お前には恋とか愛とかはわからないんだ!」

と怒っていたけど、確かに、わからなかったのかも(現在進行形)。

 

でもじゃあ彼がわかったのかというと、ちょっと疑問は残るが(^_^;)、とにかく彼は原子力村と正面から向き合って、相当相手(電力会社など)に圧力をかけ続けているようだ。

昨日高校時代の何人かが入っているツイッターでニュースが流れていた。

とくにアタマに来たらしいのが、電力会社側が、

「そうした非科学的態度」

という言葉を使ったことに対してだ。

規制委員会のメンバーには、日本が世界に誇る研究者が名を連ねている。その人間たちに向かって、「非科学的態度」とはなんだというわけだ。

ここで彼の反骨精神に火がついてしまったらしい。

(この非科学的態度という言葉でニュースが報じられた時には、僕もかなりムカッと来た。じゃあ電力会社がどれほど科学的なのか、世界の学者に問うて欲しい)

あ~あ。

彼に火をつけちゃったらもうちょっとやそっとのことじゃ消えないぞ。

悪いのを敵に回しちゃったな、原子力村の人間たちは……

 

しかしそれに引き替え、生活保護がほぼ決まりの僕はなんなんだろう……人生はまさしく彼の勝ちだなあ(´・ω・`)。

オンナがわかっているのかどうか怪しいが(しつこい)。

 

■昼食後、ぶつ切れで観ていた『HANA-BI』を観終えた。

2回目かな。

読書と同じで、人間時を経て経験が変われば観る目も変わってくると痛切に感じた。

とりわけ不治の病に倒れた女房を持っていたり、あるいは金の切れ目が縁の切れ目と妻子に出ていかれたり、そうした中年以降の哀愁を演じさせたら、やはり北野たけしというのは世界のたけしと言えるだろう。

あの淡々としながらも強烈な描写力。

外国の映画ではなしえない、静かだが内に燃える火は消えないという、日本民族(単一民族とは言っていないので)の本質性が垣間見えたような気がする。

 

こうしたテーマを演出するのに、やはり映像というのは破壊的な力を持っていて、言葉の要らない感情がはっきりとそのまま心に伝わってくるような気がする。

 

そこへ行くと小説というのはもどかしいところがあって、言葉をつむがないと意味が通じないし、しかし言葉を積み過ぎると小説そのものが自己分解を始めてしまうという短所を内包しているやっかいな表現の世界。

もし映像より一歩も二歩もリードしているとしたら、キャスティングによる想像力の破壊とは無縁でいられるというところだろう。

たけし演じる元刑事の妻役が岸本加代子であるのだけれど、読者や視聴者は、主人公と自分とを重ねる傾向がある以上、岸本加代子というキャラクターや外面に、どうしても亡き妻の姿を置き換えたいと思っても、これは映像の破壊力に押されがちであって、完全に感情移入ができるのは、よほど主人公に魅力がないとムリであろう。

脇役すべてを自分好みの環境に変えるには、それなりの時間がかかる。

そこへ行くと小説は、主人公の顔も脇役の顔も、最初から見えない白いスケッチブックのようなものであるから、そこに自分の似顔絵やら亡き妻の姿を描きやすい。

その一点のみ、文筆が映像より力を持っている部分があると思う。

それを活かせるかどうかは、すべて作者の描写力によるわけだが、その中でも大切なのは、「間」だと思う。

この小説における間というのは、映像における描写をはるかに凌駕するものではあるけれども、それがためにかえって難しい。

僕もその「間」をもっと勉強しなくてはと思っているのだが、それは死ぬまでできないかも知れない。

それほどの強敵だ。