✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■2/1(金) 雑誌の存在意義は風然のともしび?

宅急便と、確定申告の郵送で外出したときから、すでに陽はかくれ、やや重苦しい鈍色の雲。

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セブンイレブンで書棚をながめると、少し前にも気になった講談社『週刊現代』の安部ノミクス礼賛記事。

中身を読んだわけではないので、礼賛のつもりではないのかも知れないが、それでも株価は上がるだの1ドル100円になるだの、煽りのタイトルが目立つ。

 

対する小学館の『週刊ポスト』では、ハゲタカだけがもうかる安部バブルといった警戒&批判記事のタイトルが続いている。

 

なぜか原発や放射能問題の時とは攻守ところを変えた戦いを演じているようだ。

 

原発問題では、ポストは20年近く、ずっと擁護の姿勢をとってきた。だからこの雑誌を読むのは、たとえばフリーランスのルポライターとともに、敵の背後になんの狙いがあるのか、あるいは記事中に敵失はないかの研究対象としてだった。

 

編集長が替わったかどうかチェックなどしていないけれども、なぜ原発問題で売り上げを伸ばした現代が、自民党政権の肩を持つのか。どこか豹変という言葉がしっくりする感じさえしてしまう。

 

そもそも雑誌の存在意義というのは「ゲリラ戦」にある。

100パーセントエンタテインメントに徹した雑誌は別として、世の中の矛盾だの問題点だのを指摘して、新聞やテレビが報道しない、できない事柄を突いて世論を喚起するというのが大きな役割であって、それが権力にすり寄ってしまっては、新聞テレビとどこが違うのか、意味をなさなくなってしまうと思う。

 

逆に新聞やテレビが

「さすがにこれはおかしい」

と、政党や企業、官僚などに戦いを挑み始めたときには、雑誌はすでにその役目を終えている。たとえ同じテーマを取り上げるにせよ、別の視点から、あるいは新聞テレビが見逃している問題点を執拗にえぐりだすという戦術転換が必要となってくる。

 

雑誌というものは、正規軍として正面切って闘うだけの組織も能力もない存在なのだということを忘れてはならない。

そうした全面戦争を闘うのは新聞テレビにまかせて、自分たちは神出鬼没の友軍、あるいは新聞テレビがふざけた迎合記事を流している場合には後ろから弓を引く立場――野伏のような武装集団――であることを認識しなければならないと思う。

 

だからこそこれまで、ヘアヌードで部数を伸ばし、アイドルのセミヌードで驚異的な売れ行きを見せるなどあの手この手で金を儲け、雑誌本体の温存をはかった上で、時に鋭いキリで相手を突き刺すような攻撃をしかけて来たわけだし、それが雑誌編集者の先輩たちの矜持でもあっただろうと思う。

 

ポストにせよ現代にせよ、今回AKB48のお泊まり記事を発売する週刊文春にしても、そうした野伏としての立場を忘れて権力や大衆に迎合してしまっては、

「雑誌なんかなくてもいいじゃん」

と読者にそっぽを向かれ、いずれゲリラ戦はネットのニュースや動画に引き継がれてゆくと思うのだが……

 

給料の多い少ないで出版社に就職する人間が激増してしまったのだから、とっくに滅びる芽は育っていたのかも知れないけれど。