✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■1/19(土) どうあがこうが、巻き込まれてゆく。

 

 かつて日本は、

「西洋に追いつけ追い越せと」

いう官製のキャンペーンばかりではなく、なんとかこの貧乏から抜け出したいという個人的欲求が強かった。

自分を含めた学生は、文机の上に、暗い電気スタンドと教科書、ノートを置き、毛布にすっぽりとくるまって、夜中も勉強を続けた。

なぜ毛布をかぶったかというと、雪国だから寒かったせいもあるけれども、なにより同じ部屋で寝起きしている両親や兄弟を起こしてはならないという事情があったからだ。

 

――死んだ父から聞いた話だ。そうやって帝大を目指し、極貧の生活を強いられていた家からの援助をほとんど受けずに、父は受験に合格。新潟三高から首都東京へと出て来た。

 

将来の日本のためにと、國學院での教授の地位を断り、中学・高校の教師となることを敢えて選んだ我が恩師が言った。

「中国に行く機会があったら、そこの学生を見てごらん。毛布をかぶって机にすわり、電灯と教科書、ノートを置いて勉強を続けているそうだから。かつて日本はそうやって努力をして国力を伸ばし、西洋列強になんとか追いついた。今や日本はそのハングリー精神を失い、中国が取って代わろうとしている。このままでは、日本は中国に追いつき追い抜かれることになるだろうね」

と。

 

そして時間はさらに過ぎ去り、グローバリズムが世界を席巻するようになった現在、毛布をかぶって眠気と闘いながら勉強を続けている学生が、世界中に存在して、西洋はもちろん、日本にも中国にも追いつけ追い越せと、貧困と闘いながら勉強を続けている。

たとえどんな形態だろうが、我々に休んでいるヒマはないだろう。なぜなら、不況だろうがなんだろうが、食糧がなければ餓死するという単純な理由からである。

 

否が応でも、勉強と就職という生きるか死ぬかの闘いに巻き込まれてゆかざるをえない。それはかつて我々日本人の先輩たちが味わった以上の激戦となる可能性が高い。

働かなければ、食っていけないどころか、背後から襲いかかられ殺されるだろう。襲いかかってくる者は、一族のすべての期待をになっているから、必死さがまるで違う。

 

もしそうした殺るか殺られるかの世界に身を投じるのがイヤだというならば、日本が国の総体として、世界の国々に資本主義を凌駕する生き方を選択し、実践するほかないだろう。

それはかつて明治維新が断行されるころ、日本にやって来た外国人たちを瞠目させた生き方に似ているかも知れない。

絶望的に貧乏で、がりがりに痩せているが、目だけは爛爛と光らせ、猿のように好奇心が強く、農耕で陽に焼けた赤銅色の肉体は剃刀のように研ぎ澄まされ、名誉のためには死をも厭わない、西洋の騎士道をも越えた武士道の精神――

 

そのような世界や精神構造に戻るのが無理とすれば、日本人の若者たちは、たとえブラックと呼ばれる企業に雇われ、社畜としてあつかわれようとも、自ら生き残るために同胞を食いものにしてでも生きていかなければならない。

否が応でも、そうならざるをえないだろう。

そもそも資本主義の正体とは、血塗られた狩猟民族の闘争によって培われてきた生き残りの知恵であるのだから。

 

それとも人里離れた場所に住み、独りで生きることを決意した隠者――HERMIT――としての道を、生きる勇気はあるだろうか。

 

やむを得ず独りとなり、人里近くに住み、社会との接点をかろうじてつなぎとめている情けない贋の隠者の独り言。