僕なりの文章修行術⑪「て・に・を・は」+語句末や接続詞などに注意して文章を勉強し直そう①。
近ごろ夕方のニュースをBGMのように流しながら文章を書いたり本を読んだりしていると、て・に・を・は」の使い方が明らかに間違っていて、とりわけ若い女性アナウンサーに多いのだが、
「ひどい!」
と思わず独りごちながら立ち上がってた、どんなアナウンサーがしゃべってるのだろうと、テレビの画面を確認しようと作業を中断して立ち上がることがある。
例えば去年、オーストラリアの山火事がひどいことになって、住民たちが炎の中を逃げ回っている映像を流しながら、
「なぜ鎮火することができないのでしょう」
と実況中継している日本人レポーターの声を聞いたとたん心が乱れ、
「誰だっ!」
と怒鳴りながら席を離れたことがある。
いったいこの男性レポーターは他動詞と自動詞とをどう考えているというのか。
「なぜ鎮火しないのか」
もしくは
「なぜは鎮火させることができないのか」
と使うべきであろうに、両方が合体してしまって、
「なぜ鎮火することができないのでしょう」
などとマイクを通して日本中に堂々と間違った語法を浸透させるなんぞ、まさに反逆者の汚名を着せて葬り去るべき人間だろう。
おい、ここの主語は火か。炎か。
それを擬人化して自分の意志で以てして、自らの火や炎を消し去るとでもいうのだろうか。
山火事は生きているとでもいうのか! この大馬鹿者めがっ!
(はあはあ……ゼイゼイ……そのときの憤激の感情が蘇ってきて、息が荒くなってしまった)
いったい今から10年も20年も昔のニュースで、こんな間違いを許すテレビ局があっただろうか。
わずか1時間2時間という夕方のニュースで、ひどいときには3回も4回も激高して席を立つなんてことはなかったように思う。
そして考えて欲しいのは、テレビのレポートは、数日も経てばもう誰も思い出すことなどないが、文章となるとそうはいかないという点である。
これがブログなんかの文章ならまだ直しが効くから効くからいいが、紙媒体として固定されてしまったら、そうはいかない。
よほど売れ行きが悪くて、絶版どころか在庫の裁断処分という重罰処分でも受けない限り(我が輩はなんども重罰で死んどるな……首がぐらぐらするのはそのせいかのう……😭)、その間違った日本語は、半永久的に世の中に残るのであるから恐い。
文章を志す人間への、これは神様だか仏様だかによる警鐘であるようにさえ思えてくる。
自分の間違った日本語を直していくには、どうしても名著の力を借りなくてはならない。
その本に書いてある「て・に・を・は」や、その他句末の処理の仕方までをチェックして注意深く読んで行くのである。
その場合、文章はある程度時間の試練を経て生き残った少し昔の名文でなければならない。
僕の世代のように、原稿用紙に手書きにしていた時代と、ワープロを使い始めた時代にまたがっている古い人間はまだいいが、ワープロ全盛となってからの文章を読んだって、その中にどんな間違いが潜んでいるかわかったものではないからである。
しかも名文家として評価の高い作家たちが、さらに意識を高めて書いた本であれば、まず間違いはないだろう。
その場合、例えば三島由紀夫先生の『文章読本』などは、平安時代の女流文学と、男性による文章の違いから始まって、その差から来る短編小説、長編小説の違い、さらには文章の技法まで学ぶことのできる名著として、手に入れておいた方がいい本である。
実用本として書かれたはずの文章なのに、文学の秘密がこっそり語られた一級の読み物として、文章を書くことを志望する人間にとって宝物と言っても良い。
- 作者:三島 由紀夫
- 発売日: 2020/03/19
- メディア: 文庫
文章読本として書かれた同名の実用本には、錚錚たる名文家が名を連ねているけれども、
例えば谷崎潤一郎の『文章讀本』であるとか、川端康成の『新文章讀本』などは、自分の文章がかなり上級に入ってきてからではないと、文学書どころか実用本としても役に立たない。
それぐらい難しいものだから、まだまだ後でいいと思う。
で、なにをするかというと、古書店で安い本を見つけたら買い求めておき、「て・に・を・は」と語句末(僕の造語)に、色鉛筆だろうがマーカーだろうがなんでもいいのだが、色をつけるなどして、ここぞと思う部分をなんども読み返すのである。
例えば、こんな具合である。
「現代口語文がいかにして発生したかは、それぞれの専門家の本によって十分見ていただくことができますが、翻訳文が現代口語文に影響し、また現代口語文が翻訳文に影響したことは、疑いを容れない事実であります。それまでには無理をしてでも、翻訳文は雅文体で翻訳されていました。例えば鷗外の『即興詩人』は名文でもって知られていますが。
ここはわが心の故郷なり、色彩あり、形相あるは、伊太利の山河のみなり。わが曽遊(そうゆう)の地に来たる楽しさをば、君もおもひ遣り給へといふ。 (アンデルセン『即興詩人』森鷗外訳)
このようにいともみやびやかな文章であります。このみやびやかな雅文調のなかに、読者は十分に日本の風土と、日本の社会環境とはちがった、,西洋の事物に対するエキゾチシズムを満足させられたのであります。単に翻訳を味わうためにだけ口語文が必要なわけではありません。口語文は言語の発達と変化にともなって、あまりにも文章が実用から離れ、文章を作るということと、実際の社会生活とのあいだに乖離(かいり)が起こって来たことから、当然歴史的に生れたものということもできましょう。一例が、われわれは昔のような着物だけの生活では、物質文明の潮流を乗り切れないので、みっともないと思いながらも、洋服に着替えて靴をはき、社会生活のテンポにあわせて行かなければならなかったように、文章もまた激しい時代や社会の変化に即応して「なになになんめり」というような文章が、チョンマゲのように滑稽に見えてきたこととも関係があります。風俗は滑稽に見えたときおしまいであり、美は珍奇から始まって滑稽で終る。つまり新鮮な美学の発展期には、人々はグロテスクな不快な印象を与えられますが、それが次第に一般化するにしたがって、平均的美の標準と見られ、古くなるにしたがって古ぼけた滑稽なものと見られて行きます。」
などといった具合である。
別に文法的にきっちり分類をしてチェックしろ赤く塗れだのと言っているわけではなく、あくまでどこがどう述語にかかっているのかがすっきりと頭に入るように目立たせればそれでいいわけです。
そしてその自分なりに切り取った段落をなんどか読み返して、頭の中に一種のリズムを作り出すのである。
これをいろいろな文章でやっていけば、「て・に・を・は」についての間違った自意識を直すことができると思う。
じゃないと、日本人として、しかもマスコミに名を連ねる人間として、恥ずかしいったらありゃしないぞ。
実は僕が現代文学の中で名文家として考えているのは、近年惜しくも身まかられてしまった丸谷才一先生なのだが、先生による『文章読本』についてはまた明日(たぶん)。