✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

僕なりの文章修行術⑩……第三者を主語として、最後まで書け。

もし貴方がどこか何かの文学賞に応募しようとしているなら、あるいはいずれ出来れば……という気持ちがあるのならば、その賞が有名無名に関係なく、たとえば400字詰め原稿用紙50枚程度を上限としたものに絞ってまずは書いてみることだ。

「実際には応募しないんだから」

という気持ちが、筆に妙な力が入ってしまって書けなくなるという負のパワーを打ち消してくれる*1のと、

実際に締め切り日が決められているといういい意味での焦燥感、緊張感を生んでくれるメリットがある。

 

 しかし重要なのは以下であって、学ぶべきなのは、

「主語を第三者もしくは自分自身」に固定して動かさない……つまり視点を変えない。

という当然のごとき原則。

しかしこれがまあ、けっこう動いてるんですねえ、凡ミスで。

なにか書き方が気にくわない場合、文章を書き換えたり加えたり削ったりするわけだが、「第三者もしくは自分自身」の視点にさらに誰かが加わったり絡んだりした場合、文章を書き換えるとふっと変わってしまうことがある。

 

「加藤はいかにも、といったように軽くうなずいた。それだけで私には目の前に立っている二人のアラブの若者が怪しいと言おうとしているのだな、とピンと来た。

 加藤の言わんとしていたことは、私の後ろに居る斉藤にも伝わったようで、彼は前から見えないように私のワイシャツの背中を引っ張った。いかにも怯えたような爪先の震えが伝わって来るようだった。

 加藤の制止を振り切るように、ターバン姿の若者たちは奥へと入ってきた。加藤は抑えにかかっていた腕を振り払われると、恐怖で顔を青くしながら、

「ナ イ フ」

 と口だけパクパクさせながら私にそのことを伝えてきた。」

 

以上の文章にさらに文章を付け加えたい、挿入したいとする。

 

■■

「加藤はいかにも、といったように軽くうなずいた。それだけで私には目の前に立っている二人のアラブの若者が怪しいと言おうとしているのだな、とピンと来た。

 私とアラブの若者二人の間に割って入るようにして、加藤は若者たちになにか必至に弁解している様子だった。

 しかし若者は言うことを聞こうとせず、加藤を振り切るようにして、通路を奥に向かって、つまり私の方に向かってきた。

 これはまずい、と加藤は入り口にいちばん近い部屋に入った。

 地元の警察に非常事態が起きたことを説明するつもりだった。しかもアラブの若者たちはどうやって門の中に入ってきたのか。門番もグルだったのか、あるいは……

 加藤は嫌な予感がしてくるのをぐっと堪えながら電話の受話器を取った。門番は若者たちに殺されてしまったのではないか……だとすれば、電話をしようとしているのを見つかったら、次に危ないのはこの俺だと、加藤は思った。」

 

などのように、である。

あくまで例文だし、あまりうまい例だとは思えないが、私と、加藤と斉藤とがだんだんぶれてきて、どれが主語なのか、このままではいずれ加藤が私を乗っ取って、“語り部”としての地位を獲得するのは間違いない。

 

これが視線のブレである。

語り部は、神の目線と言い換えても良いが、同じ原稿用紙の中ではぶらしてはならないものである。

そうしないと、自分の頭の中で想像していることが、誰かの口調や心情となって、くるくると役割が変わり続けてしまうことになる。

これでは読者は、

(ん? なんで加藤はそこまでやるんだ? いや、加藤が入り口に近い部屋に入ってやっていることを、「私」はどうやって知ることができたんだ?)

などと混乱を来してしまうことになる。

 

もちろん、総ページ数にして300枚とか500枚とかいった長編小説の場合には、敢えて高等テクニックとして、わざと主人公を替えるケースもあることはある。例えばスティーブン・キングなどが良く使う手だが、彼の小説はとにかく長い。その長い間に最初の語り部が殺されてしまうなんてことが起きるから、次の語り部が必要になってくる。

あるいは同一画面で別別の語り部が怪物(クリーチャー)の様子について別別の見方、見え方をしていたなんて使い方をすることもある。

しかしこれらは相当に高等なテクニックであるから、めったに使わない方が良い。

 

さらに例えれば、ある主人公がいるとする。

ふだんはその主人公の見た目や感じ方によって物語が流れてゆくのだが、実は主人公を狙う殺し屋がいて、主人公の抹殺を殺し屋に命じた黒幕もいるとするならば、その黒幕の見方・考え方を露わにするために、ある場面もしくは場面のいくつかは、黒幕が語り部となることもあるわけである。

しかし本当にこれはある程度以上の実力がついてからでなくてはできないのだと、自分に対しては禁じ手としておく方が身のためだろう。

高望みをして狙いを複雑にして書き始めたら、気がつかないうちにどこかで「神様じゃない限りわからないはずの視線」が入り交じってしまっている危険性があるからだ。

文学賞など、この時点でもうそれ以上は読んでくれない。

原稿用紙の表紙の枠外に、「日本語になっていない」などと辛辣な言葉で、下読みの人間が作者を評する言葉が書き添えられて、ハイ、おしまいよ、である。

 

自分あるいは第三者を主人公にし続けることは、とりあえず守っておくべき大原則である。

 

*1 この方に無闇に力が入って書けなくなる状態は、すでに触れた「自分にとって恥ずかしいことを書く」「誰にも、たとえ恋人にも、もちろんのこと家族にも、絶対に知られたくないことを書く」練習を積んだならば、かなりの程度で力が抜けるのである。

 

 

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  • 発売日: 2020/03/09
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