✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

僕なりの文章修行術⑧(最終回の2)

続・僕の履歴と小説家志望者への餞(はなむけ)

 

あの世から僕を呼ぶ声に耳をふさぎつつ、1日数行しか進まなくても、それでもキーボードを叩き続けた。

なにしろ

「入院しないと命は保証できない」

という状態での独り暮らしである。

一番近いスーパーまで行って、買い物をして帰ってくるだけで、団地の階段を上るだけで息が切れ、玄関ドアを入ったところでばったり崩れ落ち、そこでそのまま1時間とか寝てからようやく起き上がるような有様だった。

肝硬変との診断が下されたほどなのだから(自分が記者とした徳州新聞の母体である徳州会病院のヤブ医者に殺されそうになり、慌てて友人にいい医者はいないかと尋ねたところ、なんとインタビューをしたことがあるという名医が家のすぐそばで開院しているのを知って駆け込んだ。

そこの老先生が今の僕の主治医であるが、先生もお年なので、いつ隠退されてしまうか、あるいは身まかってしまうかわからない。

肝硬変になると、副作用のひとつとして、「肝性脳症」という病気にかかることがある。

これは、体の毒物(アンモニア)をきちんと分解できないために、アンモニアが血液で脳まで運ばれて、さまざまな症状を引き起こす。

例えば夜中トイレに行こうと起き上がる。ところが部屋の出入り口がどこだかわからない。指さし確認のようにして、

壁だろ? 洋服ダンスだろ? ベランダだろ? また壁だろ? で押し入れだろ?

と、押し入れの前にある出入り口をすっ飛ばしてしまうのである。トイレに行くまで、指さし確認をするために何十回ぐるぐると部屋を回ったことか……


東京で、心配してくれた先輩が寿司をおごってくれるという。

ところが、神田神保町に午後4時に着くためには、ここを何時に出ればいいのかわからない。

何時のバスに乗って、駅まで出て、電車に乗って、大手町で降りて、東西線に乗り換えて竹橋か。その先は歩きか……と思っても、逆算ができない。


歩く時間を30分見て(実際は10分ぐらい)、では竹橋に何時何十分に着く電車に乗るのか、湘南の駅を何時に出る電車なのか、それに乗るためのバスは何時か……

これらをネットで検索しようにも、ネットでどう入力したらいいのかわからないのだ。

そうやって堂々めぐりをした挙げ句、先輩に、

「どうやって行ったらいいのかわかりません。今日は中止にして下さい」

と電話してお寿司はお預けとなった。

 

つまり、自分の置かれた環境というのがまったくわからなくなってしまうわけ。

支払期限の過ぎたスマホの代金を払うためにソフトバンクのショップに行ったはいいが、千円札を握りしめているのを忘れて財布をさがしまわり、

「すみません。お金足りなかった」

と言うと、ショップの店員は怪訝な顔をして、

「お客様、手に千円札を握ってますよ」

こんな状態が2年近く続いた。

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僕の場合、幸いにして(?)アルコール性の肝硬変だったから、アルコールを一滴も飲まなくなったら劇的に良くなっていったのだが、それでもまともに買い物ができるようになるまで2年前後かかったし(それでも疲れて疲れてどうしようもなかったが……)、小説なんてまともに進まなかった。

70ページぐらい書いては気に入らなくて全文破棄したり、また新たに書き始めてまた捨てたりを続け、完成までこぎ着けたことはなかった。

それはつい去年まで続く。

だんだん書ける枚数は増えてきたけれど。

 

その間、部屋で一人きりである。

だれもいない。テレビの音しか聞こえない。

それでも、

(無駄な努力か?)

と思いつつ、書き続けることだけは忘れなかった。

夏目漱石がかつて、これからは日本に個人主義がやって来る。壮絶な孤独を覚悟しなければならないと、まるで予言のごとく看破していたが、自分が味わっているのは、まさにその壮絶な孤独というやつなのだと感じた。

 

小説を生業とする人間は、いやアーティストのほとんどが、その壮絶な孤独というものに襲われる。

せいぜい、仲間うちでカラオケをしたり深夜まで酒を酌み交わしたり、売れっ子作家の場合は、たまに出版社の編集長クラスに連れられてゴルフに行ったりするていどで、あとは人によるけれども、自室で何時間か独りで文章を書き続けるのである。

(はたしてこの作品を読者は喜んでくれるのか。もしかしたら俺は最低の物語を書いてるんじゃないか)

と、常に自問自答しながら、苦しみながら、文章を書き続けるのである。

周囲に自分を助けてくれる人などいない。

不安をまぎらわせるために、カラオケや酒に行ったりするけれども、その内面の悩みなんて、他人が聞いたって理解できるものじゃないし、その前に説明することは不可能だろう。

よしんば何とか自分の職業はこうで、こういう孤独があって、今は産みの苦しみにのたうちまわっていて……

などと行きつけの飲み屋で苦しみを吐露したとしても、

「へええ、大変ねえ。がんばってね」

とスナックのママだろうがキャバクラのホステスだろうが、同じことをのたまうだろう。

小説を書くなど、まず普通の人間では理解不可能な行為なのだ。

もし理解できるとしたら、同じ作家同士だろう。

ところが(寂しい)と思っているくせに、(俺の作品がいちばんおもしろい)というおかしな自負もあったりするから、作家同士仲が悪く、派閥ができたりもする。

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いわゆる「文壇」というものが形成されていた昔は、

(○○先生の行きつけは銀座の「○○」)

(何丁目の「▲▲」は▲▲先生の縄張りだから気をつけろ)

(□□先生が××賞に落ちたらしい。機嫌が悪いから、絶対に○○先生のことは、たとえ悪口であっても話題に出すな)

などと、編集者の間では、重要情報が出版社横断で流れていたそうだ。

 

文豪といえども、ホステスに囲まれたり、妾を囲ったり、作家同士で夫婦交換したり、同性愛に走ったり、どんなことをしてでも、独り部屋にこもるときは孤独である。

友人は孤独しかいない。

姿は見えずとも、作家をどこからか見つめている。気配を感じてふり返るほどだ。

だが彼は冷笑を浮かべるだけだ。

部屋の片隅から。

心の奥底から。

 

それほどの孤独、派閥、悪口、噂話、読者の反応……

貴方は耐える覚悟があるか?