✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

僕なりの文章修行術⑧(最終回の1)

僕の履歴と小説家志望者への餞(はなむけ)

 

最終回を迎えるにあたって、実は文章修行に関する有益な本をざっと紹介するつもりでいたのだが、ハッと気がつくと、20年間の作家人生のうち、後半は「時代小説家」として、主に江戸時代を舞台にした書き下ろし文庫というものを書いていたのだと思い出した。

 

僕は元来、ファンタジー作家になりたいという願望があったのだが、デビュー作は国際テロリストものであったし、次にはメシを食うために「トンデモ仮想戦記作家」としてけっこうな冊数を書いてきた。

しかしどんなに書いてもイヤでイヤでたまらなくなって、当時の出版社の会長のところにご挨拶に伺ってお酒をご馳走になった際、時代小説なら……という承諾を得ることができたのである。

 

ようやくトンデモ仮想戦記から離れることができたのだが、ここにも難関が待ち受けていた。

もともと歴史小説は大好きだったのだが、高校の授業など、まず江戸時代にまで授業が進むわけもなく、江戸時代に関する知識はほとんど無いに等しかった。

それで猛勉を重ねながら、フリーの編集者や正社員の編集者に命じられるがまま、不本意な作品を書き下ろし、しかも勝手に手を入れられるだけではなく、その勝手に書き加えられた部分が「日本語になっていない」なんて悲劇は珍しくもなんともなく、このジャンルもただひたすらメシを食い、当時はまだ一緒にいた元妻や子どもたちを養うためにジッと我慢の子で書き続けていた。

なにしろ出版社の正社員である編集者にうとまれたら、二度と仕事が回ってこないからである。

 

集英社という出版社を非円満退社してからというもの、『徳州新聞』などの業界紙記者をやったりしていたのだけれども、住宅ローンの支払いに滞るようになり、国民健康保険の支払いもなんども猶予してもらうなど、銀行や市役所に頭を下げに行くだけでなく、軽い酒乱であった元妻から金切り声で、

「あんた、お金どうすんのよ!」

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と責められ、罵倒されながらも、書かなかったら家は競売にかけられ、あと2年で大学受験という長男の受験勉強に悪影響を与えたくなくて、鰻の寝床のような2畳+2畳の書斎に立て籠もって内側から女房の声が聞こえないように鍵をかけ、台所に行くのが怖いから、つまみも無しで焼酎やらウイスキーやらをがぶ飲みしつつ、キーボードを叩いていた。

このころから肝臓に異変を来し始めたようだ。

 

やがて元妻のヒステリックな責め立てに強迫神経症のような症状が現れ始め、近くの診療内科に行こうとしても、そこは長男の母親の実家が経営しているクリニックだったので、

「ばれたら学校中に広まるんだからやめてよっ!」

と怒鳴られて、自分で車を運転しながら、佐倉市八千代市の中間ほどにある、いわゆる精神病院にまで行って、カウンセリングを受け、寝られないということで睡眠導入剤とか、胸がしめつけられるようになるということでデパスという薬をもらったり、そして帰ればまた責め立てられるというかなりキツい後半生を迎えるに至っていた。

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やがてどうにも耐えられなくなり、娘の小学校最後の運動会を見て、一緒にお昼ご飯を食べたあと、冬休みに入る前に家を出て、とっくに亡くなっていた母親や、数年前に死んでしまった父親が住んでいた東京の世田谷にあった無人の実家に戻り、周り中がビルなもんだから昼なお暗く、1日の日照時間が2時間あればいい方という暗い暗い家の中で、持ち込んだパソコンに向かっていた。

振り返れば、よくぞ心が完全に壊れなかったものだと自分でも感心している。

 

そのうちに肝臓はどんどん重症化し、まずは脂肪肝との診断を下されたが、可愛がっていた息子と娘に会いに行く電車賃すらままならずに、多少稼いだ金で食いつなぎながら、やはり酒はやめられなかった。というより酒ですべてを誤魔化していた。

その後、友人のすすめもあって、ここ湘南の地に落ち着いたのだが、その友人が言うとおり、海は近いし、なんとなくウェットな東京とは違って、カラッとした陽気や住人の雰囲気に感化されていったのだろう、診療内科も卒業し、鬱一歩手前の精神状態を克服したところまではいいのだが、やはり独り暮らしの寂しさから酒はやめられなかった。

やがて水を飲んでも吐いてしまうような状態となり、食事もする気が起こらなくなってきて、これはさすがにヤバいなと思っていた。

そしてもう5年半になるのか、学研で最後の仕事を終えると同時に病院に転がり込んだところ、医師から絶句され、ただちに入院と言われたのだが、そんな金もないからと断り続けたところ、

「入院しなくちゃ命が危ないんだから、このまま帰すわけにはいかない」

と親切で言ってくれる医師を振り切るようにして帰宅し、とうとう寝込んだ。

 

55歳で死んだ母親が、

「もういいよ。貴方はがんばったよ。こっちにいらっしゃい」

と呼ばれているような気がしていた。

当時僕もあと1年で55歳を迎える年齢となっていたのだった。

 

 

ブラッドベリ、自作を語る

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