✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

僕なりの文章修行術⑤

さてようやく文章修行へ。

 

別にわざとここまで引っ張ってきたつもりはないのだが、文章を書くということと、構成ということとは、表裏一体、密接な関係があるからだ。

文章を書くことにのめり込んでゆく自分と、メモかノートにあらかじめざっと書いておいた「見通し」――つまり出だしとか1)~いくつまでのブロックを書くのか、それでおしまいなのか或いはそれを第1章として第2章、第3章もあるのか、終わりはこんな感じにしたい――といった計画表に立ち返って頭を冷やしては、また文章の中にダイブしてゆく作業が、ときどき交互に現れなくては、僕の悪いクセのように、話があっちこっちに飛んでしまって、いつまで経っても結論とか筆を擱く余韻にまで持って行けないことになってしまう。

小説であれば、実はそれは間違いではないのだが、ここを読んでくださっている人たちが、「別に小説を書くつもりまではないよ」というレベルであったならば、ある程度の計画表とか工程表が必要になってくる。

ひとつ前の記事の中で、林真理子さんのインタビューのごく一部を抜き書きしたけれども、ああした

「神がかった状態」

「パンの神が下りてきた状態」

になる必要もない人たちも大勢いるだろうから、あえてこういう書き方をしている。

 

さて文章修行の前に大事なことは、

自分が大事にしている経験などを、いきなり書き始めてはならない。

ということ。

ゆめゆめその大事なことを文章修行のための素材として使ってはならないのだ。

ふだん文章を書いたことがない人たちは、まずこうした初歩的なことからして道を踏み誤ってしまいがちだ。

なぜかというと、

体験やそれを元にした文章には魂がこもっており、それを文字に表すことによって、魂が抜かれてしまう

のを知らないからである。

実に不思議なことだがそうだ。

一例だが、仏文学者の鹿島茂が何かの著書で直木賞候補だったかに挙げられたとき、新聞の書評で丸谷才一先生が、一定の好評価を与えた後で、

「この作品に拘泥せず、まったく別の作品を書くべきだ」

という趣旨のことをおっしゃっていたような「気がする」のだが、鹿島氏が精魂込めて書き上げた文学作品にはすでに魂が入ってしまって、鹿島氏の手元に残るのはすでに形骸化した小説の骨組みのようなものだから、再生するのは並大抵のことではない云々と。

(以上は編集者であった我が父から聞いたことで、極めてあやふやな情報であることをお許し願いたい)

かつて大流行した『TRICK』というドラマじゃないけれども、

「文字には不思議な力がある」

のだ。

 言わば言霊信仰とも呼ばれる言霊精霊がこれである

これは文才にあふれた尊い者にも、我々のような賤しい者にも共通して現れる力であり、これから文章を書こうとしている諸氏はこれを心して聞いておかれた方が良いと思う。

自分が暖めている題材や体験などは、文章修行なんてもののために、手軽に差し出してはいけないものなのである。

書いた瞬間から、その魂はあなたの体を抜け出して、原稿用紙に吸い込まれて動かなくなってしまう。

 

磯城島(しきしま)の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ」柿本人麻呂

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じゃあ、なにを書いたらいいんだ!?」

と面食らう初心者たちも多いことだろう。

これに答えた文学者や評論家(嫌い😅)などは数多いだろうが、僕の答えはちょっと特殊。

いや、ちょっと特殊で、一般の初心者には強すぎる悪魔のような薬かも知れない。

ただし、体質に合いさえすればの前提つきだが、絶大な効果を発揮すると思っている。

 

 

人にバレたら死んでしまうと思うぐらい恥ずかしい経験を書け!

 

初心者が文章を書くときに最大の邪魔者となって立ち塞がるのは、

「恥ずかしい」

という気持ちである。

これが強いと、

(誰かが見てるんじゃないか)

(実はみんな知ってるんじゃないか?)

と、どんどん疑心暗鬼におちいってしまうのである。

先ほどの言霊精霊にも関連するのだが、こうした邪魔者の魂を自分の中から引っ張り出して、原稿用紙に貼りつけ、動けなくしてから、燃やすなりシュレッダーにかけるなりして処分してしまうのである。

 

恥ずかしい、というのは、家で書いているならまずは女房、子ども、あるいは恋人などの家人であろう。

この人たちに、例えば自分の性癖がバレたらどうしようか。ヒジョーにまずいし、女房子どもにはそっぽを向かれるかも知れないし、最悪離婚という結末を迎えるだろう。

(事実、僕のエクスワイフは「あんたが官能小説とか書いたら即座に離婚よ!」とわめいていたが、良かったね、離婚して😂思い通りになったじゃないか)

こういうときに、「結婚なんかしちゃあなんねえ!」の教え(ぶはは)を守っている人が、人生いかに楽になるかのひとつの証左であるけれども、実は実際に独り身であろうと家族がいようと、そう大した差はない。

(誰かに読まれているんじゃないか)

という疑心暗鬼は、あくまで自分の精神の問題であるから、よしんば独りであろうとも、過去の友人であるとか恋人であるとか恩師だの父母だのといった、その場にいない、いるはずもない人の視線を感じるものなのだ。

だからこの「恥ずかしい」という文章修行最大の敵に対して、

「怨敵退散!」

臨兵闘者皆陣烈在前!」

とやらにゃーいけないわけだ。

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考えたらいくらでもあるだろう。

「満員電車で痴漢にあったら、同性なのに興奮してしまった。その頃から僕には、どうも内面に同性愛が占める割合が大きいのだと気がついた」

「オンナを経験したのは遅くて21歳の時。それも相手に誘われて、導かれるままになってしまった。美味しい物をご馳走すると言われ、注がれるままに酒を飲み、その最中には自尊心をくすぐられるわ愚痴を聞いてもらえるわで、多いに憂さを晴らし、はしご酒をしてぐでんぐでんになった挙げ句、彼女のマンションに上がり込んで、後はなすがままだった。今現在、別の女性と結婚して子どももいるが、決して家庭がうまく行っているとは言えず、妻とは罵り合ったり口を利かなかったり……そんな時につい思い出してしまうのが、あの初体験の年上女性だった」

 

素材はなにも性的なタブーだけではあるまい。

「いま考えても身震いがするのは、増水で堰を乗り越えて大量の水が落ちていくような状況の中、一艘の手こぎボートが、ゆらゆらと堰に近づいていくのに気がついた。一緒に遊びに来ていた友人が

「おい」

とうわずったような声を出した。

なんとその手こぎボートに乗っていた男の人が、オールではもはやボートが制御できなくなったらしく、立ち上がって多摩川に飛び込む様子を見せていたのだ。

僕たちの近くにいた釣りのおじさんが、

「馬鹿ー! やめろー! 死ぬぞー!」

と大声を出しながら腕をぐるぐる回していたが、ざあざあと大きな音を立てながら流れる波の音にはばまれて、まるっきり声など聞こえない様子だった。

その男の人は、たぶん大学生とか大人の中でも若い人のように見えたけれども、しばらくためらっていたかと思うと、両足をそろえて川の中に飛び込んでしまった。

そして三度か四度、首が出たり潜ったりしていたが、やがて首は沈んだまま二度と浮かんでくることはなかった。

釣りのおじさんたちは大騒ぎで、警察を呼びに、どこかへ走って行った。

やがて川崎側と東京側の両方にたくさんのパトカーと救急車が集まってきて、堰の下を棒でつつきながら男の人を探していたが、長い時間がたっても見つからなかった。

釣りのおじさんが、

「門を開けたみたいだな」

と言ったが、そう言えば急に堰の下の水が増え、水しぶきが上がってゆくのがわかった。

おじさんが僕たちに言った。

「お前らも気をつけろよ。この堰の門ってのはな、下の方から上に開くようになってるんだ。たぶんボートから飛び降りたやつは、川底まで吸い込まれて、門の下のどこかに引っかかって浮かび上がれなくなったんだよ。もうこんなに時間がたってるから、間違いなく溺れて死んじまったな」

と言った。

川底に吸い込まれていくってどんな感じなんだろう。想像するだけで怖ろしかった。

川に飛び込むことを、なんだか周囲に照れているように薄笑いしていた男の人の顔が、今でも僕の脳裏を離れない。

よほど怖ろしかったんだろう。水の底に吸い込まれてゆく夢をときどき見ることがある」

 

「中学校の先輩に命じられて、初めて本屋さんで万引きをした。『チャート式数学Ⅰ』とか英和辞典とか、とにかく値段の高い物ばかり“注文”が来た。注文、というのは、盗んだ参考書などを買う中学、高校の生徒がいるからである。

そいつらは定価の半額で高い参考書を買い、親からもらったお金をセーブして飲み食いに使おうというせこい奴らなのだ。

中学の下級生の俺たちばかりがバカを見た。本屋の店員に捕まって、店長からくどくど注意を受けるぐらいならまだいいが、警察を呼ばれ

その警察に親が呼ばれて、学校でも大問題となり、二度とやりませんという誓約書を書かせられた友人もいた。

でもさすがにそこまで行くと、さらに万引きを強要するような先輩こそいなくなったけれども。

その点、僕らのグループは“優秀(?)”だった。もともと小学生のころから地元の友人だった僕らは、固い結束力で結ばれており、中学生から多少の脅しを受けても、撃退する方法をちゃんと知っていた。

僕らがやったのは、万引きを強要した1歳、2歳上の先輩の首根っこを押さえ、そいつらを警察に突き出すとか親にばらすとか言って脅し、金品を巻き上げるという、万引きどころじゃないもっと悪質なものだったのだ。これが面白いほど儲かった」

 

いくらでもあるだろう。

秘密にしておきたいことなど、誰しもひとつやふたつ持っているだろうからである。

これを構成してどのように書き上げ落としていくのか計画表をメモし、家人の目を盗みながら書くのである。

家に書斎を確保できない人間は、会社帰りに喫茶店だの外食レストランだのでコーヒーでも飲みながら書けばよい。

そして書いた物は、家に置いておいたらほとんどの場合女房連中にバレるだろうから、持ち歩く。

持ち歩くと言っても、万が一会社で誰かに見られたりする危険を感じるのであれば、会社に到着するまでの駅のロッカーなんかにそのノートなどを入れて保管してしまう。

そして、普通だったら腕で隠すようにして書く内容の文章をいくつも書き上げ、書き上げるたびに始末してしまうのだ。

 

そのうちに、外食レストランの机の上に原稿用紙だのノートだのを広げていても平気になるし、幸いにも家で書斎を持てる身分だったら、ヤバい内容の文章ですら、平気の平左で書けるようになるまで訓練するのだ。

もちろんどうしようもなく構成が悪いならば、ハサミとノリで切ったり貼ったりをやった上で。

 

この作業を何度かやれば、自分の悪癖であろうが書こうと思えば書けるようになるし、書けなかったら物書きとは言えないのである。

文章修行でいちばん大切なのは、自分の心をも題材にして、それを客観的に眺められる精神構造なのだ。