✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

 [僕なりの文章修行術]①

いきなりパソコンやワープロを使うな!①

僕は売れない小説家である。

2流どころの作家と言い換えても良い。

それでも、作家の総数というのが日本で何人いるかわからないけれども、500人なら500人、1000人なら1000人(1000人以上はいない)の中に名を連ね、この20数年間生き残ってきたことは事実である(ただしここ5年半は大病の治療でまったく書けていない)。

いくらかでも文章にたずさわっている友人たちは、

「そりゃすごいことだよ」

と褒めて(慰めて)くれる。

しかし小説家で居続けることはそれほど難しいのだ。

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photo by acworks

幸いにして、僕らの世代は音楽や思想、ファッションなど、当時のあらゆる事象の端境期にいた。

不思議なことだが、少し上の世代がビートルズ世代であり、後の世代はイーグルスあたりに熱中していたと思う。

我々60年代世代を代表するような音楽というものは、それらに比べると個人的、内省的なものが多かったような気がする。

例えばサイモンとガーファンクルのように、個人や社会的が持つ寂寥感のようなものに閉じこもっていた気がする。

我々はカウンター・カルチャー(対抗文化)が衰退していった時代に生まれ育ったから、文化的な背景というものも特にはなく、上の世代の激しい思想を半ば敬遠しながら眺めるだけだったし、後から来る世代の時代にとらわれない新しい思想に興じる姿を半ば嫉妬心をともないながら見まもるだけだった。

寂寥感と言ったのは、この荒涼とした原野のような風景を物語ってのことである。

 

ところが不思議なことに、この「端境期」というのは、編集作業とか文章の作成といった一見関係のない分野にも影響をおよぼしていて、この点に関しては、我々は上の世代にはなかったメリットを享受でき、なおかつ下の世代のような技術の進歩によって見過ごされるようになってしまった文章術を叩き込まれるという幸運さにも恵まれることとなったのである。

 

それはすなわち、

「文章は手書きによってこそ、基盤が形作られる」

ということなのだ。

 

 

最初からいきなり、パソコン(とワープロソフト、アプリ)いう文明の利器を使って役立つことと言えば、ウィキのコピペで論文を書くとか😅、なにかの印刷物の下がき原稿を作るとか、

「プリントアウトを第一の目的とした」

文章製作に他ならないのだ。

つまりはただの見てくれだ。

それでもかまわないという、例えばだがビジネス系の書き手を否定するつもりはない。ただ、彼らの書く文章には「文章の棚」がないから、なにを書いてもなんだかおんなじようなイメージの本となってしまう。

 

悪いことは言わない。

もしも貴方が少しでも手応えのある、相手に肉声が伝わる文章を書きたいのならば、たとえ時間がかかっても、最初からうまい文章、見栄えの良い印刷物を作ろうと思って、パソコンに手を出さないことだ。

「箇条書きのような文章では、読み手の魂を揺さぶることはない」

のである。

例えば自分の一風変わった半生記を書きたいとする。それを年代ごとに箇条書きのような形で書いていったとしよう。

跡に残るのはなんだろう……

 

少しでもいい文章、自分の魂が相手の魂に届く文章を書きたいのなら、

すべては鉛筆とノート、消しゴムから始まる。

ということをゆめゆめ忘れてはならない。