《結婚なんかしちゃあなんねえ!》⑦
ロマンチシズムという男子最大の敵。
多くのオトコの中にはあるだろう、「必ず俺と出会う運命の女性(ヒト)がいるはずだ」という気持ちが。
これはひと昔前の男女とは立場が逆転しているような気がしてならないのだが、これはオトコの何十倍、何百倍もリアリストであるオンナの方が、オトコの背中が見え始めたと思ったとたん、一気にそのオトコを抜き去ってしまったことによる幻視からだろう。
もちろん社会的に不利だという立場はまだまだ残っているだろうが、もともと現代社会がオトコによって作られたシステムである以上、致し方ないことないことではないかと思うし、精神面でオトコを一気に抜き去ってしまった時のようなスピード感はガクンと落ちただろうが、いずれゆっくりとでも間を詰めて来るに違いない。
考え方によっては、これはオンナにとっては極めて有利な立場であり、精神面ではオトコをはるかに凌駕(リョウガ)しているにもかかわらず、それには気がつかないふりをして、あくまで「弱いオンナ」「もっと大事にされてしかるべきオンナ」という立場を演じつつ、もはやオトコが精神面で再び追いついてくることのないように、どんどん距離を開いてしまうことができるからだ。
例えば、自分の両親を大事にする思春期のオトコをして
「あの人、マザコン」
と軽蔑する時代というのが一時続いたのだが、そうやってオトコを精神的に追い詰めつつ、自分はまるでマザコン・オトコに翻弄される弱いオンナであると傷ついた自分を演じながら、一方では将来義母となるかも知れないカレシの母親さえをも葬ってしまうような小ずるい策略が堂々とまかり通ったものだった。
その後ようやくその策謀に気がついた世間によって、「マザコン」という言葉は死語となるのだが、オンナはそれでもタダでは起き上がらなかった。
「自分の親を大切にする人ってさ、結局結婚相手の女性をも大事にする人ってことじゃない?」
という会話を女子同士で交わし合うことによって、
“理解力のあるオンナ”
を演じたのが次の作戦であったように思う。
その時代のオンナに引っかかったのが、僕の年代のオトコたちであり、少し前のビートルズ世代あたりから、日本における離婚率はバーンと跳ね上がったままとなり、今日では小学校中学校の教室に2~3人は(離婚による)片親の同級生がいるというのが珍しくもないという現象にまで至ってしまったのである。
つまり、離婚するしないの主導権はオンナがオトコから奪い取ったのであり、昭和の初期まで続いていたオトコ側による
「縁切り」システム
が効力を失った世代というのが、昭和30年代生まれのオトコたちであったように思う。
まあ、歴史的反動というやつですな。
(昭和20年代後期のビートルズ世代は、それでもまだオンナがオトコについていって当たり前という風潮があったから救われたのだが、30年代初期のいわゆる“新人類”が登場するまでの端境期をになった昭和30年代生まれのオトコたちにとっては、長い長い受難の時が過ぎていった)
もちろんオトコの側にも肉体的優位性でそうした圧力を跳ね返そうという暴力的なヤカラが、数を減らしながらも存在するのは事実である。DV男の酷さは、実はこのオンナによる地位確立の圧力に耐えきれなくなった精神的に弱いオトコたちが、その言動をエスカレートさせた結果とも言えなくはない。
いまちょうど父親によって虐待死させられた栗原心愛ちゃんの裁判の真っ最中であるが、その記事を見聞きするたびに、僕は涙を禁じ得ない。心愛ちゃんの父親は、娘に食べ物も与えず、毎日殴る蹴るの暴行を繰り返した。
心愛ちゃんは、
「苦しいよ。死んじゃいそうだよ」
「許せよ。家族に入れろ」
「助けてママ、助けて。お願いママ」
と泣き叫んでいたそうである。
父親である栗原勇一郎は、理屈もクソもなく、
「俺に従え。従わなければ殺すぞ」
という気違いである。
(ちなみに僕は、気違いはきちんと気違いと言おうと主張する一派のひとりである。僕よりふた周りぐらい上になるのか、儒学者であり漫画評論家で、一部に絶大な人気を誇った呉智英氏(現在、京都精華大学マンガ学部客員教授)は、世間、特に当時のマスコミに対する当てこすりもあってか、「吉外」という漢字を当ててこれを表現していたが、僕はもっとストレートに主張してしかるべきだと思っている。
なんの抵抗もできない我が子までをも虐待して殺してしまうオトコなど、男女の差以前に、人間ではないと思うからである。
世にはびこる人権主義者たちは、知的障害者に失礼だとか、世間に誤解を与えるだとか何とか言って異を唱えるけれども、僕は何を言われようとも、気違いは気違いだと思うし、「吉外」というものともまったく別物だと考える。
文句があるならツラを貸せ。逃げも隠れもせず殴り倒してやる。言っておくが、僕は年齢的にはもうジジイレベルであるけれども、毎週2回は走ったり、自室で自重筋トレをして鍛え続けているし、学生時代は剣道、少林寺拳法、ボクシング、社会人になってからも松濤館空手でなんども大会に出場し組み手の試合で優勝した腕前だ。覚悟しておけ)
話が重い方向に飛んでしまった。
申し訳ありません。
軌道修正。
こうして追い詰められつつも、本来が女性以上に女性であるオトコは、遺伝学で言えばその染色体のメカニズムからして弱い立場であることが明らかであるのだが、本来女性優位である女性の中に、
(きっと僕にぴったりという女性が、必ず存在するんだ)
という理想郷を見いだすのである。
オトコが夢にまで描いた「男性優位の理想郷」という幻影である。
ここにオトコが持っている最大の弱点「ロマンチシズム」が見え隠れする。
いや、確かにいるだろう。
「結婚して以来、ケンカしたことは数度しかない。生まれ変わっても、またこの人と出会いたい」
と夫婦そろって口にする幸運なカップルというのも存在するに違いない。
ただしそれは、何十万人ものオンナのひとりであり、いや何百万人にひとりか、何千万人にひとりかも知れないのだが、
「出会うのはまず不可能」
という希有(ケウ)な存在としてなのである。
こんな偶然も偶然の相手を理想の相手として考え、結婚するなどという博奕(バクチ)を、なぜ打つことができるんだろう。
もしかすると、セックスというモルヒネのせいだろうか。
たった一度しかない人生に、それはあまりに代償の大きいギャンブルではないだろうか。
貴君は自分の人生の2/3もの時間を、そのギャンブルのために捨ててもかまわないというのか。
「結婚しようか」
などとうっかりつぶやいてしまう前に、なんどでも振り返って考えてた方がいい。
オンナとしての相手ではなく、ヒューマンビイングとしての相手として考えるように努めた方がいい。
果たしてこのオンナを人間として見た場合に、尊敬に値する人間なのかどうか、ノートを作って、彼女の長所・欠点について箇条書きにしてみるのがいい。
そしてそれぞれの場合において、彼女がどのように行動するかをシミュレートするのだ。
(もし近所のアパートに、自分の子供と同い年の子がいて、しかし片親ということもあって貧乏で、その子は「おやつがたくさんあるから」「オモチャや漫画がいっぱいあるから」と毎日のように家に遊びに来ると仮定した場合、僕の彼女はどんな態度をとるだろうか。
(僕の別れた妻は、
「うちにばかり遊びに来るくせに、自分は私たち母親をアパートに招待しない」
と不満を漏らしていた。
そりゃ、四畳半と六畳しかないアパートに母一人、子ふたりで暮らしているのだから、狭いだろうし、荷物でいっぱいだろうし、パートに出ているから部屋の片付けだってままならず、散らかしっぱなしの部屋に同じ母親である同年代のオンナたちを呼びたくはないだろうと僕は思ってそう言ったのだが……。
元妻は、僕がいない間にその子に言ったようなのだ。
「お母さんに言っておいて。うちは毎日来てもいいんだけど(これは、うちの娘の勉強する時間がなくなると不満を言っていたからウソである)、○○ちゃんの家にも行きたいなあって言ってたって」
それでその子は、僕の家に上がり込むことは二度となくなってしまった。娘を連れて公園に遊びに行ったときなどに見かけると、僕のことが怖いのか遠慮しているのか、あるいは気まずいのだろう、ろくな返事もしないで、自転車でどこかに行ってしまった。
元妻が言うには、自転車でひとりで遊びに行くのを許されてからは、家に上げてくれる友だちのところを探しては勝手に上がり込んでいるのだそうだ。
可哀想じゃないか。僕はそう言って、また元妻とケンカになったことを覚えている)
僕の元妻というのは、かつて自分が、この女性とだったらうまくやっていけるだろうと考えたオンナである。
ところが彼女との意見の差は埋まること無く、それどころか近所中で噂されるほどの大声で連日ケンカして、離婚するまでの20年間、毎日が地獄であった。僕のとりわけ後半生は、元妻との闘争に明け暮れながら過ごしたという本当に無駄な時間であった。
そしてもう二度と、取り返しはつかないのである。
だからまだ結婚前の貴君は、そのノート上で、考えつく限りのケーススタディをやっておくべきだ。
いちど結婚してしまったら、別れるまでにお互いものすごいパワーを使ってヘトヘトになるし、後悔しても後の祭りとなってしまう物事が山ほどあったことに気がつくが、その時はすでに遅く、その物事の山が崩れて体を半分埋められてしまいながら悶え苦しむのだから、
「ノートを使って結婚をシミュレーションするなんて」
と笑っちゃいられないことなんだぞと僕は言っておきたい。
とりわけ僕の時代よりも今の時代はオンナに有利だ。この傾向はさらに続いていくだろう。
昭和初期までとは違って、今やオンナも働けば何とか食べていける時代になってきたのだ。
本来遺伝学的に不利な立場にあるオトコどもは、自分の細胞の中からはミトコンドリアの原始的な本能に従わされてオンナの奴隷へと近づいていくし、外的にも優位となった女性に押しつぶされる運命にある。
ライオンのオスが、ふだんは上げ膳据え膳、狩りをして食料を手にするのもメスまかせで堂々としていられるのは、いざ別の群れがやって来たとき、子供たちが食い殺されないように、その母親であるメスライオンを守るために、のっそりと立ち上がって、生死を決する闘いをするからである。
現代社会において、戦場は別とすれば、暴力は全否定される世の中である。
つまりオスライオンの生きる理由などどこにもないのだ。
見知らぬ群れが現れるなんてことはまずないし、そんな強盗団のような、夜盗のような集団がいたとしたら、とっくに警察が捕まえてしまっているだろう。
存在理由のなくなった我々オスライオンは、いったい何のために生きるのか、生かされるのか。
それはひたすら巣に金を運ぶためだけである。
やがて子供たちが巣立つ頃には、ズタボロとなって子供からも愛想を尽かされ、妻にはボロ雑巾のように扱われて、好きな趣味さえ保証されない。
その妻というのは、みんなかつては理想の女性であったことを、ゆめ忘れることなかれ。
※戦後、公職追放解除後の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から
「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」
と批判された。
ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます。
なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。
私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」
と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。
(めんどくさいのでウィキからコピペ。男女同権のこの世の中、もう二度と、三木武吉のような政治家は出てこないだろう)