専門出版社全盛の時代がやって来る!(3)
もうひとつ、これはYouTubeがうんたらかんたらという問題以前に、
「日本人の雑学離れ」
という至極真っ当な問題が、ようやく浮上してきたのである。
もちろん、エンタメ系、ひまつぶし系などなど、どういうジャンル分けをしたらいいのかわからないけれども非常に面白い分野も多いから、それらが衰退してなくなっていくということはないだろう。その強みは圧倒的である。
(かくいう僕もやっぱりそうした単純に面白いと思われる番組は見てしまう)
けれども日本人が他の先進諸国から時折揶揄されるように、
「なんで日本人はそんなに雑学が好きなんだ? その問題についての表面的な知識をいくら仕入れたって、そこからいったい何が生まれ、どういう知的満足を得られると言うんだ?」
という民族的性向(?)については、なんら反論できないぐらいのれっきとした事実であろう。
『トリビアの泉』という2002年から4年ほど続いた“雑学番組の雄”というべき名番組があったけれども、日本人の雑学好きという性向が市民権(市民って言葉、好きじゃないんだけどなぁ……)を得たのは、この番組あたりからじゃなかったかと思う。
しかしそうした雑学全盛時代にも翳りが見え始めたのは、日本人自身の中に、
「それを知ってるからってなに?」
という疑い、反省の念が出てきたからだと思う。
それはそうだろう。
東海道線の各駅の名前を東京からぜんぶ順番に言えるとか、48都道府県の「都道府県の花」や「世界の国花」をぜんぶ言えるとか――
(言えるようになったからって、どうだっていうの?)
ということに多くの人が(まだまだ少ないとは思うが)気づき始めたのである。
なにかについて調べるのに、自ら関連書籍や資料に当たることなく、ウィキペディアの丸写しでオシマイということでは、そこに発展性は皆無なのである。
こんなことは、たとえばアングロサクソン民族だろうがドイツ民族にだろうがみんな知っていることで、民族や国家、引いては民族、人類の発展のためには、自分の頭で考えなければダメだという当然のことに、長い間日本人は気がついていなかった。
いや、正確に言えば、江戸時代から大東亜戦争が始まるまでの方が、創意工夫という面においては今よりも上だったのではないだろうかと思われる。
それが敗戦後の民族の堕落によって、頭脳、すなわち想像や発明、創造といった面まで劣化してしまったとまで思えてならない。
なぜそんなことになったかと言えば、世界規模でみても極めて優秀な民族であった日本民族を総白痴化してしまえというアメリカなどの思惑があって、マッカーサーがその先兵となって動いたのだというまことしやかな陰謀論があるけれども、それを一概に「馬鹿馬鹿しい」と笑えるだろうかというぐらい、日本人の創意工夫力が落ちていることは否定できないだろう。
ここ何年かのうちにノーベル賞を取った日本人の学者が、口をそろえて、
「自分で調べなさい」
「自分の頭で考えなさい」
「人から言われたことそのまま鵜呑みにしていちゃだめだ」
「まず疑うことから始めろ」
「なぜ我々よりはるかに若い人間が、海外留学して、見聞を広めようとしないのか」
「このまま日本にいてうまくやっていれば、一生食いっぱぐれはないと考えている若者が増えているからではないか」
などと口裏を合わせた口裏を合わせたかのように発言しているのは、想像力を失っていない少数の日本人たちの危機感のあらわれだと思う。
趣味でやっているならいい。誰が何をしていようがかまわないし、文句を言われる筋合いはないだろう。
でも海外の友人の目の前で、東海道線の駅の名前を羅列したり、世界の花の名前をすらすら言えたり、日本の鉄道を走る列車の名前を何十何百と披露したって、
「Oh.great」
でオシマイとなるのが関の山だろう。
そして彼らは心の中で、
(で?)
と聞きたがっているはずだ。
それでどうした? と。
このことに、わずかながらでも気づき始めた日本人の若者が増えているということは、ますます混沌とし始めた世界規模の難題を前にして、いくばくかの光明として希望を抱きたいと思う。
(なかなか始まんねえな、本題😓)