■9/7(土) ②執筆を中断しては再開することの怖さ。
■ある人の小説をぱらぱらとめくっていたら、その話の展開の速さに驚く。
他の作品をいくつも読んだ作家さんなのだが、ちょっとご無沙汰していて、まだ読んでいない作品を何気なく観ていたのだ。
これは……
気になって、今自分が書いている最中の原稿を頭から読み直してみると、冒頭部分はいいのだが(つまりいちばん大事なところはなんとかクリアしている)、その後からやや冗漫な部分が増えてくる。
これはかなり刈り込まなくてはならない。
それに、3章立てにする腹づもりだったものが、いくらシリーズの最初とはいえ、1章目の分量が増えすぎてしまって(これは僕の大きな欠点である)、現在すでに100ページに近く、しかも第1章を完結するためは、まだ30ページは必要(それでは済まないという予感も……)。
文庫の書き下ろしというのは、270ページを要求されることが大半だから、3章立てにしようと思えば、平均して90ページということになる(これにこだわる必要はなく、第1章が多くて、第⒉章第3章がそれぞれぐっと少なくなっても、読者が違和感を感じない程度だったらかまわない)。
しかしこれは、どう見ても刈り込まなければならない。
表現とか言い回しとか、そんな枝葉末節を整えるつもりはない。
故レイ・ブラッドベリ(ああ……もう新作は読めないのか……高校生のころから虜だった)もこう言っているではないか。
「考えて、削除して、書きなおす時間は、あすという日にたっぷりあるのだ。きょうのところは――爆発して――吹っ飛んで――大分裂!
どうせ、これから推敲を重ねる難行苦行が待っている。だったら、とりあえず第一稿を楽しもう」
と。
しかしながら今回は、邪魔者がひとりいることを発見してしまったのだ。
どういうことかというと、舞台に登場させたはいいものの、使い勝手が悪く、しかも話が広がってしまって、焦点がぼけてしまう可能性があるし、第1章を短く刈り込むことができなくなってしまう。
この俳優を降板させるか、あるいはちらちらと存在を見せるだけにとどめて、本筋にはなるべくタッチしない「その他大勢役」に徹してもらうか……
いずれにせよ、第1章を書き進めると同時に、展開の速さの問題と、キャラクターの始末を同時に考えていかねばなるまい。
1週間2週間痛みのために筆を持つことができず、数日書いてはまた次の痛みの発作が来るような状態では、やはり脳内の記憶が薄れてしまう。
毎日たとえ数行でも書き続けているのと、時々書いてはまた長期休養をとるのとでは、同じ分量だったとしても、リズム感や質感がまるで違ったものになってしまう。
やはり病気というのは大敵。特に痛みだけはどうしようもない。
しかし――いいこともあった。
これまで生活に追われる余り、見直しなどほとんどしないで、校正を1回やるだけでそのまま通して本にしてしまった作品がほとんど大半を占めていたのだ。
ところが今は、生活保護を受けながら、きちんとした「見直し」をしていくことができる。
(書き下ろし業界では、実はそんなことよりも、毎月一冊書ける作家を求めている。多少欠点があろうが、毎月連続して出す方が、売れ行きが良いのだ)
つまり、思い病気を患ったおかげで、すんなりと生活保護を受けることができ、これまでぎりぎりまで頑張ってきた精神的ストレスも消え、行きたくても行けない、行かなければ命にかかわると思いつつも、お金がないから行けなかった病院に行けるようになったことも嬉しいし、じっくりと作品にのめり込むことができる生活を与えられたことが何よりもありがたい。
命と引き替えにそうした生活を得られたようなものだけれども、なんだかそれで良かったような気もしている。
特別大きな病気がなく、僕のように肝性脳症にかからなくとも、アルツハイマーなどで介護が必要となる老人はいっぱいいる。
そうした生活を考えた場合、はたして僕はそれに耐えられるかどうか。
自分がなにをしているかわからない状態が10年続くとしたら、その10年を神さまにお返しして、やはり今のような生活をさせてもらうようお願いするだろう。
実際、僕は命と引き替えに穏やかな執筆生活に入れるようになって来たのだから、それで良かったような気がしている。
■手元に、藤沢周平全集全23巻がある。
父の形見である。
藤沢氏の没後、補巻が3冊と別冊が刊行されて、全27冊になったそうであるが、父はもうこれで十分と思ったのか、購入しなかったようだ。
その全集の第十八巻(「よろずや平四郎活人術」)の月報に、中野孝次氏の寄せた一文がある。
「藤沢周平の文意のよさ、その品格、端正さ、風味、切れ味は天下一品である。
幅一間ほどの道が、門から奥の方に斜めにのびていた。左右は太い欅の幹である。歩いて行くと、欅の樹皮が提灯の光を照り返すのが見えた。(蟬しぐれ)
文四郎が欅御殿に夜入ってゆく場面の描写だが、ほんの一筆書きで欅御殿のさまを描き出してみせる。こういう場景描写ばかりでなく、戦闘場面、自然描写、心理描写などでも、藤沢の文章は名人の所作のように崩れずいつも端正で、切れ味良く、読む物にすがすがしいカイカンを残すのである。
文学とは何よりもまず文章だということとを、彼の書くものは示している」
到底そのようなレベルに達することは、残念ながらもう生涯ないだろうけれども、それでもなるべく丁寧に文章を練り上げてみたい。
そのチャンスを、命と引き換えに、病気と生活保護とが与えてくれたと思っている。
なんというありがたいことだろう。
いずれ生活保護から脱したならば、市に立て替えてもらった形の生活費や医療費を全額返すことになるのだから、結果的には税金を払っている人たちに迷惑をかけないし、それだけは何としてでも実現したいとおもっている。