■7/11(木) ②小説家としてはベストな環境。人生としては?
■一日中うとうとと寝ていたら、だいぶ元気に。
心なしか、象さんの足の、指の根もと部分の腫れが引いたような気がする。
1階のポストまで郵便物を見に行ったが、家庭教師のトライのチラシが1枚だけ入っていたのみ。
おかしいなと思って部屋に戻ると、ちょうどその間に娘からメールが届いていた。
「実はぶたちゃん住所間違ってたみたい(´-ω-`)
ごめんねー!今日ちゃんとだすね!」
このぶたちゃんというのは、たぶん自分のことをドジなヤツですんませんみたいな意味あいで使っているのだとしか考えられないが、こういうメールが多いので、いつも頭を悩ませる。
「あたし、小説読むのは好きなんだけど、現代文の成績悪いんだよねー。なぜだろ」
と書いて来たこともあったが、前後の脈絡なく「ぶたちゃん」が出てくるんだから、成績良いわけがない。
たぶん僕の性格のひとつを形成している「白昼夢を見るクセ」「たくましい妄想力」というものが、娘には極端な形で現れたんじゃ? という気がする。
■復活中。
なんだか象さんの足の腫れがますます引いて来て、くるぶしの尖った感じが見えて来たような気がする。
(これまではまるで粘土細工のような足首だった)
一日中ひたすらなにもしないで休息をとっていると、これだけ回復するんだなとあらためて思う。
でも、回復したなと思った時に限って主治医のところへ行かなければならなかったり(行かないでクスリがなくなったら万事休すなんだから仕方がないのだが)、支払いや買い物、市役所などに出かける用事が出てくるもので、そうなると、翌日ガクンと調子が悪くなる。
――ということが、ようやく身に染みて実感できるようになってきた次第。
■それにしても食欲がない。
寝たり起きたりしているだけなんだから、消費カロリーなんて最低しかないだろうし、でもそれが逆に、アンモニアの産生をも低下させているような気がしないでもない。
一日ではっきりとたんぱく質と言えるものと言えば、朝、晩の生卵1つずつ。
あとはアミノレバンを別とてれば、野菜のみ。
今日はキャベツの千切りと、昨日買っておいたホワイトセロリのサラダ。
もともとセロリの味は小さい頃から好きだったようで、母が作ってくれるしじみとセロリのスープは大好物だったが、確実にその影響だろう。
しかしホワイトセロリって柔らかいしクセも少ないから、葉から茎までばりばりと食べられて美味。
生食したのは今日が初めてなのだが、いっぺんでファンになってしまった。
昨日は明日葉の油炒めを作ったし、なんだかレタスとかキャベツとかほうれん草とか、ふだん食べ慣れた野菜とは違った感動があるなあ。
でも、ご飯はそれだけ。
大きめのボウル一杯に作ったサラダを食べたら、もう食欲がない。
発芽玄米ご飯も半日水に浸けておいたものを炊いたのだが(発芽玄米の場合、玄米ご飯とか八分づき米とかと違って、水に浸しても浸さなくてもあまり変わらないような気がする。ことファンケルに限っては)、まったく食欲が失せてしまって、保温スイッチを切ったところ。
もう少し温度が下がったら、茶碗半杯ずつラップにくるんで冷凍庫に入れる作業をしなければ……
■前にも書いたが、今はまだ回復するだけの体力も残っているからいい。
ところがどんなに気力が残っていたとしても、年をとって体力が落ちるところまで落ちてしまったら、これは本当にキツイだろう。
食材を買いに行くことだってツラクなるだろうし、ましてや料理をして、簡単な片付けをして、洗濯をして……たぶん今なら最悪な状況でもなんとか踏ん張れることが、あと10年もしたらできるかどうか。
極めて心もとない。
娘も含めて、誰にも頼るつもりはないし、不安かといえばそうでもないのだが、たぶん本当に動けなくなったら、誰にも気づかれずに昏睡状態のままあの世に逝くんじゃないかと思う。
近所の人が管理センターに通報することはないだろうし、家賃が溜まりに溜まって明け渡し請求とかを送っても、僕からなんの反応も返ってこないという時になって初めて、管理センターの人間が様子を見に来るのだろう。
今のままだったら、その可能性が高い。
だからなんとかそれまでにお金を作り、せめて1年間だけでも訪れたことのないヨーロッパで独り暮らしをして、自殺ツアーに参加して、ぷちゅっと注射を打ってハイそれまでよとなりたいものだと思っている。
死ぬまでに書きたい作品は、だからその人生最後の旅行をする前になんとか仕上げなければならない。
別にどこから出版されなくても、僕にしか書けない作品として、この世に残しておきたい。
そうした意味では、離婚して、子供たちもひとりは独立し、もうひとりも独立しつつあるのだから、毎年悩みはどんどん減っているわけで、これは考えてみれば執筆環境にはベストなのではないかと思う。
もうすぐ完全に独りとなるであろう生活が、実は執筆生活にはベストであるという皮肉。
どんなに仲の良い夫婦であろうとも、年をとってくればくるほど、ケンカが多くなるか、あるいは互いに(一方的に)気を遣うか、まるで相手の存在が見えないかのような透明な関係になるか、いずれにせよ同じ屋根の下で暮らす以上は、たとえ運良く透明な関係になれたとしても、そこにはやはり〝他人〟という存在があるのは間違いない。
物心ついたときから、常に「寂しい」と思い続けてきたのは、たぶんこの現在の環境を手に入れて、それに耐えうる試練の時間だったのかも知れない。
また一方では同時、作家としてもっとも大切な宝物の入った「引き出し」が増えたという幸福も忘れてはならないと思うし。
(まあ、良い女性がいたら、結婚はしないけれども、素敵なガールフレンドとしてお付き合いぐらいしたいものだが)
憎しみあうのはもうごめんだし、罵りあうのもたくさんだ。
僕のように脳天気の人間でも、それには堪えられなかった。
ところが友人も先輩も知人も、死んだり行方がわからなくなったり、周囲にいる人間がどんどんと減って行くであろう現在が、実はようやく手に入れられた最高に心穏やかな時間なのかも知れない。
少なくとも、死の間際まで後悔し続ける人間ではありたくないと、僕は思っている。
※なんと、ひさしぶりにAmazonの自分のページをのぞいたら、売れ行き60万位台まであと少しというところまで落ちた打ち切りのシリーズ、3万位ちょっとまで回復している!
なんだか僕の場合、時々こういうことがあって、その勢いが発売当初に続いてくれればと思うのだが、どうも細々と長く売れる傾向にあるようだ。
しかし発売数ヶ月もたってしまうと、編集者も営業マンも、そんな昔の本のことなど忘れてしまうから、過去の出版物を丹念にチェックして……ということはほとんどやらないそうだ。唯一、講談社にはそうした部門があるそうだが……。
夕方には2万位台だったんだろう。
きっと全国で3人ぐらいは買ってくれたな(-◇ー;)。