✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■2/10(日)  頭のなかだけでは理解しきれない孤独。

孤独にはとっくに慣れているし、今ではそれを味方につけてさえいるのに、昨日のあの感覚はなんだろう。おかしいなと思って、仕事の合間にひと分析。

(味方というのは、僕の場合、その孤独感や喪失感を登場人物に照射<中国の軍艦ぢゃないよ>してみるという行為。主人公はもちろん、サブキャラクターの気持ちになってみると、その人物に血が通う)

 

その原因はひとつしかないなと、思い当たった。

それは、娘がここに引越してきて、ここから大学に通うことはないんだということを、自分が新しい棚(安いがちょっとおしゃれなマガジンラックを兼ねたような品)を買うという行為によって、現実化させてしまったからじゃないかと。

 

けっこう楽しみにし、その夢想を楽しんでいたのだ。きっと。

まずここに住むとなったら、まず布団一式どうにかしなければならない。あまり高すぎず、かといって寝にくくては意味がないから、できればやはり西川の布団を買えないかとネットで検索したり。

あるいは、独り暮らしでもふたり暮らしでも、光熱費はさほど変わらないよなと安堵したり。

しかし一方、外食の値段は倍になるなあと思ったり、いや自炊するならふたり分も変わらないと一喜一憂したり。

いま寝室として使っている6畳の和室をフローリングにするにはいくらかかるんだろうとか、そうなると祖母の唯一の形見である桐の箪笥はどこへ置こうだの、そんなこんなを仕事の合間に考えていたのである。

 

それがなくなった。

先日娘からの返事で、千葉の家を出ることは考えていないと言われて、頭ではそうなのかと理解したけれども、実感としてはともなっていなかったんだろう。

それが、ふたりでアマゾンだの楽天だの、これなら買えるし見た目もいまどきって感じで、かえって高い家具よりセンスはいいだろうと結論を出して、じゃあ12日に少しお金が入るから、代引きで頼んで、その分娘の銀行に振り込むよと電話を切った翌日の夜に、猛烈な孤独感に襲われたのだと思う。

 

これは娘が住む住まないだけの問題ではなく、

「自分の残りの人生は、子どもに囲まれるでもなく、孫と遊ぶでもなく、この身ひとつで生きていかなければならないんだ」

という厳然たる事実にぶちあたったのだと思う。

頭の中ではとっくに覚悟していたのに、それを目の前でまざまざと見せつけられてしまったのだろう。

 

しかしそこが僕の弱いように見えて風に揺れる柳のように粘り強いところであって、そうと決まればその覚悟はすぐにできてしまう。

これは過去、さまざまな孤独と向き合ってきたからこそ、心が鍛えられた結果であることは間違いない。

やはり若い間の苦労というのは、その時はそれで頭の中がいっぱいになったり真っ白になったりするものだけれども、十分に味わっておくべきことだなと思う。

艱難汝を玉にすじゃないけど、そうした積み重ねの後にふと幽体離脱のように、自分自身の苦労をまるで高いところから見下ろしているような気持ちになれるのだから。

 

またもう少し強くなれた。