✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■2/10(日) 作家というハイリスク・ハイリターンの人生。

明け方さらに寝直し、結局昼の12時前に起床。

まるで編集者時代に戻ったようなめちゃくちゃな生活に戻りつつある。

いけないな。

この仕事が終わったら、積極的に花めぐりの散歩でもとりいれて、夜ふかししていられないようにするなど、もういちどリズムを整えなければ。

しかし夜、暗闇の中にいると、容易に架空の物語へとすんなりとワープできる。

もちろん妄想の世界だから論理的な文章は書けない。あくまで情緒的で、ともすると破綻の深淵へと転落する崖っぷちを歩いているような危うい文章だ。

 

けれども一方では、小説というのは、あまり明晰な頭脳のもとでは書けないものではないかという気もしている。

 

私見に過ぎないが、学者のように書籍を読み解きノートをつけながらでは、架空の人物に魄は吹き込まれないのではないだろうか。ロボットのような人間たちが動き回るだけである。

 

つまり物書きの理想とは、適度な理性と適度な狂気のなかに浸った状態にあるということになるだろう。

(一方で村上春樹氏のように、まばゆいばかりの光に包まれた理性的作家もいるように見えるけれども、実は氏も無名時代には闇を手探りで歩いていたのではないかということが、インタビューなどの中に時おりうかがうことができるし、氏の闇が闇に見えにくいのは、それが日本人の私小説的闇ではないからだろうと思っている)

 

ところが弱ったことに、理性の力というものは、闇など一気に払拭してしまうだけのパワーがあるにもかかわらず、寿命が短い傾向にある。

その最大の原因は人間の老齢化であり、体の中のどこかに潜んでいた闇が、弱った細胞をひとつひとつ黒く取り込んでいって、やがては宿主全体を闇で包んでしまうからだと真剣に思っている。

一種ガンに冒されてゆくのに似た部分があるのではないか。

その“闇の細胞”への耐性が弱い人間は、若くして狂気の世界にどっぷりと浸かることになり、或る者は天才の名をほしいままにし、或る者は性格破綻者として石もて追われる。

 

あるいはこんなことを聞いたことがある。

作家には自分でも原因がわからないぐらい、すらすらと文章や着想がわいてきて、堰を切ったように作品を生み出す時期があると。

また一方で、作家生命にはそれぞれ限界というものがあって、その限界に達したとたん、ぱたりと書けなくなるとも聞いたことがある。

さらにはまた、作家という種族は寿命が短い傾向にあるが、これは酒に溺れたり荒唐無稽な生活を続けたことだけが原因ではなく、たとえ品行方正であってもまったくの下戸であっても、脳細胞の疲弊がやがて自らの死を招くのだろうと。

 

つまり作家などという職業は、一瞬の輝きのために、その前後の人生を苦しみ過ごすことが運命づけられているのであり、一瞬ですら輝けないうちに寿命を迎えてしまった者たちも、数限りなく存在するのだろう。

 

いずれにせよ、多かれ少なかれ、作家(あらゆる孤高の芸術家を含む)にとって狂気とは必ずしも忌避すべき存在ではなく、その闇の力を借りなければ成り立ち得ない職業なのではないかと、最近そんな気がしている。

 

あたかも深淵をのぞき込むために、わずかロープ1本で穴の底へと下りてゆく危うさ。

 

かくしてハイリスク・ハイリターンの職業とは、作家を含む芸術家にこそ与えられる称号であり、蔑称でもあるのだと思う。