✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■9/16(月) ②災害をもたらしたもの、災害が今後もたらすもの。

■やっぱりというか、横浜では多少被害があったそうだが、湘南地方は相模川河口の、いつもの集中豪雨でも避難勧告が出てしまうような土地の低い地域は別として、福井や京都のような大きな被害というのは無しで終わった……

横浜では多少被害があったようだが、それは地震の時も同じで、まるで地域が別々のような感じ。

横浜は、真夏には行くのもためらうぐらい暑いし、被害が出ることも多いエリア。

 

東京だって、結局は注意報、警報が出たけれども、関西に比べたら被害とも言えない安泰ぶりで、いつものごとし。

東京を直撃して、大変な思いをしたのは25年ぐらい前のことじゃなかったろうか(大学から家まで甲州街道を延々、暴風雨の中、ずぶ濡れになりながら帰宅した)。

 

そもそも水辺に人が住み始めたのは、江戸時代あたりからではないだろうか。

ようやく大規模な埋め立てということができるようになったからだが、それ以前、戦国時代までは、海辺や川辺に住むなど、とんでもなかったと聞く。

なぜなら、水害は起きて当たり前だという共通認識があるから、集落の親玉である侍の城を中心に、高台に固まって住むというのが常識であり、人々はそこから、川沿いの平地を切り拓いた田んぼや畑に通ったわけである。

 

江戸時代よりもさらに治水技術の発達した現代では、

「水害は起こって当たり前」

という意識はきわめて希薄になっているのではないだろうか。

だから、今でもお年寄りとなると、

「なんで田んぼの上に土を持ったようなところに家を買うんだ」

と驚くようなところに、人家が密集するようになってしまった。

デベロッパーたちが町の景観も整えるから、

「まさかこの街全体が水浸しになるなんて」

と、災害に遭ってからようやく気がつくというありさまである。

だからこそ、昔水辺に住む人たちは、貧乏人であったり、無宿人であったり、命を軽んじられた人々だったわけである。

ところが今や、金持ちが争って水際に住むようになったわけだけれども、液状化に加えて、今回の東北大震災の津波を見て、あらためて水の恐ろしさに気づいた人たちも多かったと思う。

 

これは津波とは無縁の川辺にも言えることで、治水技術が発達して、堰だの土手だのが整備されたから、確かにちょっとやそっとの台風ぐらいじゃビクともしなくなった。

しかしそこには陥穽(カンセイ)もあったわけで、人々は、

(まさかこの土手が決壊して、家が水浸しになるなんてことはないだろう)

と勘違いしてしまった。

というより、そもそもそんな災害が起きるのだということを想像すらしなくなってしまったのである。

 

こうしたことを考えると、よほどのお金持ち(もう一軒分の土地と家屋を手に入れられる程度の)以外は、よほど購入する土地の調査をして、断層についても業者に聞いたり自分で調べたりしなければ(断層の地図を手に入れさせるとか。三井のリハウスや東急リバブルなどの大手は、おおっぴらにしないものの、必ず断層についての資料を入手している。たとえ断層の真上に建つ物件でも、ほっかむりをして売り買いをして手数料をもうける連中なのだ)、土地と家など30年ローンを組んで買ってはいけないと思う。

千葉の液状化で、売ろうにもそんな家を買う人間などおらず、結局ローンを抱えたまま引越す、あるいは傾いた家に住まざるを得ない人が現実にいかに多いか、他山の石としなければならない。

 

結局、江戸時代だったら貧乏人だの無宿人だのと軽んじられた人々が、日本全体が驚異的な発展をとげ、世界の国々に比べたらはるかに金持ちになったような階層となったといえども、結局は水辺に住み続けるという、それはなんという皮肉なことかと、僕は思ってしまう。

 

「そんな災害にあったら、その時考えればいいさ」

と開き直った考え方の持ち主であるとか、

「海辺の別荘のひとつやふたつ、ダメになったらまた買えばいい」

と思える大金持ちであるとか、そうした人間以外は、土地の高低、水はけなど、ろくに調べもしないで、デベロッパーの笑顔にだまされ、長期ローンなど組んだら、いつ地獄を見るかわからないと、思うのだ。

 

■以下はまったく関係のない話。

もし災害にあって、何十年ローンを組んだ家がダメになってしまって、もうにっちもさっちも行かなくなってしまった場合、次に来るもっとも大きな災難は、ローン計算でも、市役所区役所への相談でも、弁護士への相談でも、銀行へのローン減額交渉でも、自己破産の手続きでもない。

もっともコワイのは“内なる敵”である。

 

ローンはまだ何十年も残っているとか、引っ越しせざるを得ないとして子供たちに転校を強いるのは心苦しいとか、手の平返したように人をまるで犯罪者あつかいする銀行にもうこれ以上通いたくないとか、そんなものは、精神的には些末な問題に過ぎない。

苦悩にのしかかられて難渋している男の傷心を、まるで錐の先でえぐり出すような残酷な言葉を投げかけてくるのは、妻である。

やれ、

「あんたが、この土地にしようって言ったんじゃない」

「ほんとに大丈夫?って、なんども確かめたのに、あんたは大丈夫、オレに任せろって言ったじゃない。じゃ任せるからどうにかしてよ」

「だからあたしは毎月のローン代が高すぎるって言ったのよ」

「子供たちを私立から公立に転校させるって? そんなことできるわけないじゃない。子供たちがかわいそうだし、第一ご近所に恥ずかしくてそんなことできないわよ」

etc.……

自分が「家が欲しい」と言ったことは棚に上げてである。

 

「しょうがないわよ。いっしょにがんばろう」

と言ってくれる妻を持った男性と比べたら、前者のような「すべては他人(夫)のせい」

と言い放つ妻を持った男性の打撃は数百倍も大きい。

しかしそうしたすべての責任を夫になすりつける妻、その半分を自分でも受け入れようとしない妻は、自分が

「男の可能性と闘争心をつぶしている」

という愚行をおこなっていることに気がつかない。

銀行に頭を下げ、会社にローンの増額を願い出、市役所になんとか全壊あつかいしてくれないかと頼み、そうした精神的にこたえる苦労をして家に帰ってきたとたん、妻の口から吐き出されるのは、ねぎらいの言葉ではなく、ねちねちとした呪詛の言葉。

その言葉の裏には間違いなく、

(あんたとなんか結婚しなかったら)

という無意識の意識が存在しているものだ。

なぜなら、女にとって結婚とは、巣を営む行為とイコールだからである。

その巣を、たとえ自然災害とはいえ壊され、もういちど作り直せない男であると知ったときの、女の幻滅と怨みは、男性の想像をはるかに越えるものだろう。

だが、その毒のこもった言葉を浴びせれば浴びせるほど、夫は自信を失い、あるいは引きこもり状態となり、あるいは鬱状態となり、あるいは泥酔状態となってしまう。

つまり、前者のような“責任転嫁妻”は、みずから自分の将来を閉じている、ダメにしているに等しいのだが、それに気づくことはない。

なぜそんなことをと問われるならば、「それは女だから」としか答えようがない。

 

僕は今回(だけではないが)、まるで湖に浮かぶ四角いボートのようになってしまったヘリコプターからの光景を見るにつけ、心配になるのは、生活の立ち直りとか、立ち直るための苦労とかではない。

その四角いボートの中で、家族力を合わせて必死に立ち直ろうとする姿であるか、あるいは一家の大黒柱を徹底的にいじめ抜いて(当人にはその意識はないから始末に負えない)、挙げ句家族全体の没落を誘う住人であるのか、についてである。

 

先祖代々そこに棲み着いていた家族は別として、新しく家を購入した家族には、これから先、そうした悲劇が待っているのではないかと、自分自身も徹底的に責任を追及された自分としては、心配になってしまうのである。