✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■9/7(土) ③とりとめのないこと――独身でいるべきだった――ことについて。

■今日はおよそ2ページ。冒頭部分からの見直しも開始したから、短い時間の割には進んだと考えていいだろう。

体が痛かったり、あるいは吐き気をもよおすほど気分が悪かったりしない限り、仕事は進む。

これも「リリカ」という中枢神経をブロックするクスリを飲んだからだろうと思う。

これでまた明日も痛みがぶり返したとしたら、やはり関節炎ではなく神経障害だろう。関節炎の場合、湿布をしようが鎮痛剤を飲もうが、ここまで劇的に良くなるということはなく、徐々に痛みが治るものだという経験があるからだ。

しかも1日朝夕1錠ずつなのに、午前中に1錠飲んだに過ぎない。いったん神経をブロックすると、神経の興奮がおさまるのだろうか。

ともかくも、なんだかふたたび希望の光が見えてきたような気がする。

 

■何十年かぶりにDVDでイージーライダーを観た。

フリーダム!

いいなあ、ピーター・フォンダデニス・ホッパー

若くてハンサムで、最初は気がつかなかったぞジャック・ニコルソン

ノリノリだなあ、ステッペンウルフの「Born To Be Wild」。

 

この映画に感動したからか、いつのころからかアメリカ横断をするのが、若い時の夢のひとつになっていた。

さすがにアメリカン・タイプのバイクじゃムリだし、多分居眠りして岩だらけの砂漠に突っ込んで、頭討ってオシマイになるだろうし、そんな身軽な旅はできないと、オープンカーでの横断に変わっていったが。

 

そのうちに、いつの間にか大学入学し、卒業し、社会人となり、結婚して、小さな病気であるとか人間関係での悩みとか、壁にぶち当たり始めた時、いつか必ず息子が大きくなったら、いっしょにアメリカをドライブしようと思っていたのだが、今となってはそれ自体が夢となってしまった。

横断でなくとも都市から都市へと短いドライブだったら、娘と行ける可能性はまだ残っているが、それでもあと4年のうちに金を作らない限りムリだ……。

 

やはり、結婚なんぞせずに、将来独身で通せば良かったと思っている。

そうしたら借金もほとんどなく余裕で一軒家――それも平屋が好きで、それこそアメリカ風の素朴な家に住んで、自分でペンキ塗りをするような愛着の湧く家がいい――を所有できたし、なにしろ年収はかなり高い会社だったから、貯金もかなりできただろうし、結局今となってこうして独り暮らしをしていると、なんだ、おんなじことだったじゃないかと、バカバカしくなってしまう。

独り身だったら、当時は珍しかった6月~9月のいつでも好きなときに休めるという制度を利用して、米国横断ドライブだろうが、ヨーロッパ各国の放浪だろうが、なんでも好きにできたはずだ。

 

あの当時はまだイスラム過激派とキリスト教徒との間の憎しみ合いがほとんどなく、日本人と言えば、エジプトでもフレンドリーな待遇を受けたし、今考えると恐ろしいルクソールの廃墟のような歴史的建造物の裏側にある、西洋人さえ足を踏み入れないような砂漠に案内され、そこで首を掻き剪られたっておかしくはなかったのだが、砂漠のど真ん中にぽつんと張られたテントの中に通され、たぶんその辺りの部族長だったのだろう、全身真っ黒な衣装に身を包み、大きな革製のクルラーンを敷き詰められたジュウタンの上に置いて、熱心に読んでいたのを覚えている。

そこで砂糖たっぷりのお茶で接待を受けたのだが、その部族長はクルラーンに目を落としたまま、まるで反応を示さなかった。

ところが突然、

「ジャパニーズ?」

と顔を上げて尋ねてきて、そうだと答えると、笑ったのか笑ってないのか――たぶん口を覆い隠した衣装の中で笑っていたのだと思う――うん、と言う風に頷くと、ふたたびクルラーンに戻って二度と顔を上げることはなかった。

 

そこに案内してきたのは道ばたで

「ガイドをする、入ってはいけない墓の死体を見せる」

と声をかけてきた男なのだが、歯が何本も欠けていて、来ているものは茶色のズボンとチョッキに薄汚れたワイシャツと帽子だったと思うが、テントの中の部族長とは、明らかに人種の違う、風格の違う人間だったから、間違いなくあれは部族長だったのだと今でも思う。

 

話が脱線したが、そんな危ないことをしても、イラク戦争でアメリカに肩入れしたり、大体において日本人、アジア人は中東での紛争に足を踏み入れては絶対にいけないのだが、なにごともない時代だった。

 

事実その後、ルクソールで銃撃事件が起こり、日本人観光客――とりわけ夫婦やカップルが多かったという――10人が死亡するという悲劇が起こっているし、確かギザのピラミッド近くのホテルで、給料の安さと遅配に怒った国境警備隊と、警察の治安部隊との間に銃撃戦が起こり、僕が泊っていたホテルが全焼してしまったり(事件についての詳しい経緯は調べていない)、エジプト考古学博物館前でドイツ人観光客がマシンガンを乱射され、少年を含む10人が死亡したとか、僕が若いときに訪れた時とは違って、どんどんと治安が悪化、イスラム過激派が擡頭(タイトウ)してくるようになっていった。

 

いかんな。エジプトの話をするつもりじゃなかったのに。

 

だから惜しむらくは、僕がまだ20代~30代前半の頃、独身で、自由気ままな生き方をしていた方がずっと面白かっただろうなと、それはやはりつい後悔してしまう。

そんなことを言ったら、

「結婚しなかったら子供ができなかったじゃないか」

と友人に叱られたことがあるが、その時はまだ子供たちが小さくて可愛い盛りだったからいいものの、あれだけ愛情を注いだ

(ただし、僕なりの。長男はコワイ父親だったと言って離れて行ったが、人間、負の部分の記憶の方が、楽しい記憶の数倍規模で残るらしい)子供たちは、いまやほとんど連絡がつかないし(上はまったくつかない。住んでいるところもわからない。直系卑属だから、理由がきちんとしていれば、戸籍を追跡して附票をとることは可能だから、住所はすぐにわかるだろうが、それをしたってどうなるという気も起こり始めている。就職先は知っているし、それだけイヤがっているなら、それでいいだろうと、こちらの気持ちも冷めかかっている)、娘とは性格が似ていて、底抜けに楽天的なところがあるから、今後もつき合っては行けるだろうが、大学に入ってしまえば、そりゃ友人と遊んだりしている方が楽しいに決まっているし、またそうでないと困るわけで、

「海外旅行に行こうと誘うと、ホイホイついてくるよ」

という友人たちの言葉がとてもよく理解出来るようになっている(-◇ー;)

子供たちも、今や親離れをしてしまったから、実は最初から独身でも、さほど変わらなかったのではないかと思われる。

 

とりわけ、自分は結婚はしないと決めていたならば、あの元妻の軽いアル中と、たぶん父親の遺伝でホルモンバランスが異常なことから生じる信じられないようなヒステリーを味わうことだけはなかったのだ。

 

海のそばに住もうが、湖のほとりに住もうが、風の駆け抜ける高原の一角に居を定めようが、すべては自由で、なにもわずらされることなく、生きることができたと思う。

 

「人間、無駄なことはなにもないけれども、とりわけ作家の場合は、普通の人間だったら耐えられないような経験をしても、それを糧として自分の引き出しを増やしていけるという不思議な職業である」

と瀬戸内寂超さんが言ったけれども、では別の道を歩いたからといって、引き出しにしまうものがなくなったはずもなく、また別の引き出しを用意できたに違いないと思うのだ(これはごく最近の精神的変化)。

 

もちろん血を分けた子供が赤子のころから接する喜びはあるだろうが、その分悲しみも苦しみも増すことは事実で、借金や、妻の恐ろしいほどの性格破綻ぶり(外面はいいから、酒を飲まない限り、誰も気がつかない)と異常な嫉妬なんてものに20年近くつき合わされないで済んだことも事実で、どちらを取るか天秤にかけるとしたら、僕はやはり子供はできなくても、結婚しない方を選ぶだろう。

 

寂しければ犬でも豚でもオウムでも飼えばいいのだし、もしお金が貯まっていれば、アジアなどから養子をとることだって出来ないわけではなかったはずである。

事実、僕の母方の親戚が、栃木の施設(当時は孤児院と言った)に預けられていたと聞き、なんとか探しだそうと寺に隣接した施設を訪れてみると、孤児たち(すべてではなく、親に問題がある子も含まれているのだと施設の人に聞いた)がわーっと僕のまわりに集まってきて、我先にと、僕は……僕は……と自分の話を始めるのだ。

自分の中にある寂しさをわかって欲しい、自分の存在を認めて欲しいと、小さな子供たちが僕のセーターを引っ張り袖を引っ張り、抱きついてきたのだ。

 

そんな子の中から、僕と相性の合う、そして本や勉強の好きな、優しい子を選んで、自分の息子娘にすることだってできたはずである。

なんてことを書いていたら、もう12時を回ってしまった。