✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■9/1(日) 断酒1034日目 ①創作活動という肉体を酷使する作業。

■4時ごろ目が覚めて、次は6時ごろに覚めてとムチャクチャな睡眠。

6時過ぎにはもう室温に暑さを感じるようになっていて、布団にも熱が籠もっている感じがしたため、四つん這いのまま隣りの居間に移動。

しばらくぼーっとしてから、ゆで卵1個とアミノレバンで栄養補給。処方薬を飲み、そのまま9時前まで体をほぐす。

ほぐすといっても、ストレッチのごとくものではなく、節々にイヤな血液が溜まって、ぎくしゃくとした感じ。

そこに疼痛とはまた違った神経内部のこもった痛み(表現がうまくできない)を感じ、それが関節や関節同士をつなぐ筋肉から柔軟性を奪い、表面がゼリー状に固まっているような感覚。

(むずかしい……)

 

その後また爆睡。

11時に宅急便で目が覚める。

アメリカNOW社の「L-カルニチン」500ミリグラム180粒が届いた。

これまでは緊急避難的にDHCのカルニチンを飲んでいたことはすでに書いたが、まだ服用3日目なので、効果のほどはわからず。

痛みも腫れもそのままなのだが、気のせいか、牛の足というか、巨大ハンバーグに指がついているというか、自分でも人間の足っぽくないなと思うほどパンパンに腫れていたのだが、足の甲の盛り上がり――すなわち上下関係の腫れはそのままなものの、左右――すなわち土踏まずと足刀部が、なんとなく元の形に戻ってきたような気がする。

数日前までは、土踏まずのカーブのような線がまったく見えずに、ただ膨らんでいたのだ。

もしかしたらゆっくりとカルニチン効果が出て来たのかも知れない。

 

昨日の夜は、それまで痛みのピーク時には1日4回2錠ずつ飲んでいた鎮痛消炎剤の、最後の寝る前の分を飲まずに済んだので、もしかしたら効いているのかと。

ただの希望的観測に過ぎないのかも知れないが。

 

■足や腕を伸ばしたり曲げたり、仰向けのまま両膝を立て、膝を左右に振る形で腰~膝の筋肉をほぐしたり、とにかく固まりつつある表面の筋肉を動かすことに専念。

しかし食欲が戻るまでにはいたらず、ココナッツサブレ1枚とオレンジ半分、アミノレバンのみという決して褒められない昼食を摂る。

 

やはり昨夜、寝る直前まで原稿を書いていたのがいけなかったような気がする。

睡眠障害がほぼなくなって、何時に寝ようがこてんと寝入ってしまうことが当たり前の毎日になりつつあったのに、昨日から今朝にかけての睡眠と覚醒の繰り返しは、脳細胞が興奮したままだからとしか考えようがない。

以前からそれには気づいていて、夜は仕事を早めに切り上げて、数時間休めてから寝るようにしていたのだが、それは病気になってなぜか睡眠障害が消えてしまってからも変わらないことだった。

油断した……。

 

「創作」という作業は、頭脳労働だけではなく、肉体的疲労をともなうものであることの証明なのかも知れない。

これは、ありとあらゆる知的活動とはまた少し違った領域の問題なのではと思う。

例えば医者や学者を志し、家でも勉強を続けるのは、新しい知識を積み重ねる作業と言えるだろう。

そこにわずかに想像力が働くかどうかは、その人間の資質によると思う。

 

下敷きにするもの、例えば参考文献であるとか海外の研究論文であるとか、そうした元になる知識があって、それを自分の頭でかみ砕いて吸収していく作業とはまったく違い、小説などの創作活動というのは、その場その場で自らの脳が生み出す新たな世界を構築していくという、一種妄想とも言える作業を、しかも脳内の妄想だけではなく、パソコンなり原稿用紙なりに、文章化して残して行く行為をともなうから、苦しいし、疲れるのであろう。

ただの妄想であれば、他人にその妄想を伝える必要はなく、ただ自分の脳内で展開していればそれで済むのだろうが、小説というのは、その妄想を、破綻なく他人に読んでもらうというさらなる作業が必要となるわけだ。

これが辛いと言えば辛い(辛いが楽しい)。

 

ある例外をのぞけば、ほとんどの作家が、

「1日3~4時間集中して原稿を書けば、その日はそれで廃人」

と口裏を合わせたように言っているのだが、これは本当だ。

中には少しでも疲労を軽減しようと、ブドウ糖の飴を舐めながら、あるいは甘ったるいココアを飲みながら仕事をする人たちもいるぐらいである(たぶん痲薬と同じで、その一瞬だけは元気を取り戻せるのだろう)。

ましてや病中の僕にとっては、脳内での妄想が肉体に与える影響というのは、自分で考える以上の負担なのだろう。

 

やはり、ゆっくり、できる範囲で、少しずつでも前に進むという精神で行かないと、結局はうまくいかないと反省した。

どうも寿命のことがちらついて、わかっているつもりでも、どこか無意識的な焦りというものがあるんだと思う。