✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■8/25(日) 断酒1027日目 ①独りに戻るということ。

■夜中何度も目が覚めて、とうとう深夜起き出す。

激痛ではないものの、目覚める程度の痛みがある模様。

金曜日に初めて行ったクリニックでもらった鎮痛剤と胃の粘膜を保護するクスリを服用し、途中で今日に後回しをした『ALWAYS』を結局観てしまう。

 

吉岡秀隆氏演ずるところの貧乏小説家が、職業柄やはり身につまされるが、作家などというのはそうした生活が当たり前だということを、この便利な世の中で暮らしているとつい忘れがちになってしまう自分に気がつく。

 

これはいまだに続編(というほどでもないが、8/6の「もしも生まれ変わって、もういちど作家になるなら<その①>」)を書いていない記事の結論のひとつにもかかわってくる問題なのだが、しょせんは孤独な存在であり、言葉を換えれば孤独こそが原点であり唯一の友と“なりうる”職業なのだなあと。

 

茶川竜之介なる人物は、小説家になるために半分勘当されて東京に出、親族であるお年寄りの婆さんを頼って小説を書き続けるが、今ではその婆さんも死んで、残された駄菓子屋を経営(?)しつつ、店のすぐ奥の6畳間でウンウンうなりながら原稿用紙のマス目を埋めているわけだが、そうした独り身の生活に、見ず知らずの子がやって来て、そのきっかけとなった元ストリッパーの女と結婚を意識する間柄となるが、最後にそのふたりを一瞬にして失うという悲劇を味わうことになる(その子供はすぐに戻ってきたし、小雪演ずるストリッパーも、いつか帰るという含みを持たせたラストにはなっているものの)。

しかしその、一瞬にして周囲を家族(準家族)に囲まれ、それをまた一瞬にして失ってしまうという悲劇。

その悲劇こそが、小説家、作家と呼ばれる職業にまとわりついて離れない、運命なのではないかと思う。

 

僕も、若くして母を失い、父は天寿をまっとうするものの、弟とは年が離れていることもあってかなり以前から反りが合わず、その後離婚をし、長男とは音信不通となり、わずかに長女のみ慕ってくれるものの遠い場所に住んでいて、電車賃すら払ってやれない年数を重ねているうちに、もはや子供とは呼べない年齢となってしまった。

父の親戚であり従兄や従姉は新潟にいるものの、父の兄ふたりは戦死、母方の兄妹はともに結核で若くしてこの世を去ってしまったため、親族と呼べる存在はほとんど残っていない。

 

片や自分自身はと言えば、編集者時代の放蕩がたたって、さまざまな病気を抱え、今では生活保護というありさま。

浅草のSKDでダンスをやっていた母と、帝大出で、当時文壇が隆盛を誇っていた華やかな時代に名編集者としてこれまた放蕩に明け暮れた父との間に生まれた自分だから、もうそれ自体が小説の一部のようなものなのだが、親の因果が子に報いた挙げ句に売れない小説家に身を落としてしまうハメとなってしまった。

 

そうした記憶がぐるぐると、その主人公がすべてを失ったその瞬間に走馬燈のように流れて来て、不覚にも涙をこぼしてしまったのだが、いつの間にか眠ってしまったらしい。

11時ごろテレビのある居間で、そのままの姿勢で目が覚めた。

 

今日もまた朝から言葉を交わす人間はおらず、然しながら貧乏学生時代にクセがついた父が言っていた独り言をいうクセもなく、ひたすら黙ったまま本を読み、映画を観、ワープロを叩き、そして今では病とも闘いながら、いたずらに生をむさぼるのみ。

やがて来るであろう末路の想像も容易につくけれども、はたして物心ついたころから自分が背負ってしまったものは何なのであるか、考えてもいっこうによくわからない。

わからないまま終わるのであろうが、最近そうでもなくなったものの、ごく普通の家庭に暮らし、ごく普通に会社勤めをし、ごく普通に結婚をして、ごく普通に子供たちの成長を見守り、ごく普通に老後の生活を送ってみたかったものだと、思わなかったとしたらウソになる。

 

もちろんそれすらを含めて、小説家として引き出しがたくさん増えたと、例えば瀬戸内寂超さんなんぞは言うのであろうが、引き出しが多すぎるというのもまた、考えものだなとも思う。