■8/18(土) ②なんか、足が痛いせいか、憤ってる(-◇ー;)

■キノコと豆腐の鍋で夕食。

その後1時間ちょっと爆睡。まったくの前後不覚。

起きて見ると、足が痛い。

けれど上半身を起こしたまま、それ以上立ち上がることができず、ぼうっとしていた。まるで廃人のよう。

ヨガマットのすぐそばに置いてある薬入れ用のバスケットに手を伸ばし、イヴの類似薬を飲む。

 

その後ようやく人心地ついて、真っ暗な中、ベランダに干しっぱなしの洗濯物を取り込む。

 

本日は2サイクルで2ページ半。

調子が良ければ3ページ行っただろうし、ストーリーが進めば4ページも夢ではない。

コンスタントに4ページ進めば、校正や次作の構想を含めても3カ月で1冊終わる。

年間4冊のペースが確立できる。

賞狙いの作品を再開するから、文字通り4冊というわけにはいかないだろうが、それでも4冊出せれば、その中から増刷がかかる作品も期待できる可能性が高まる。

つまり、生活保護を脱する足がかりができる。

 

だから、体調が好転してからの目標は、3カ月に1冊。

なんとか実現したい。

 

■もしかすると今日の不調は、昨夜の『クラウド アトラス』を観て、夜更かしをしてしまったからかも知れない。

夢中で観ていたから気がつかなかったのだが、なんと3時間もの大作だったのだ。その間、ヨーグルトを食べたり、加賀棒茶を飲んだりしていたから、終わったのは3時前……。

その影響も大きかったのかも知れないなと、先ほど思い当たった。

 

それはさておき、これだけ錯綜した脚本というのは単純にスゴイなと思う反面、まあ一般受けはしないだろうなという感想。

ひとつひとつのストーリーを膨らませていけば、それぞれが1本の映画になるだろうというようなできばえ。

これは間違いなくひとりのライターによる仕事ではなく、アメリカなどでは当たり前となった、株式会社としての脚本の集大成ということだろう。

 

昔野坂昭如先生が、

「いずれ日本もそうなるだろうけれども、こうしたアクションだのサスペンスだの(僕のデビュー作――厳密には本を出したというだけでデビューとは呼べないのだが――は、国際謀略物だった)といった仕事をひとりでこなすのは、とても難しいことになりますよ。会社組織で、データを調べる部門、写真を集めたり撮ったりする部門、小さなアイデアを無数に生み出す部門なんかが上げてくる膨大な資料の中から、プロデューサーなりディレクターと作家先生が取捨選択したものをひとつのストーリーに仕上げて行くわけですからね」

とおっしゃっていたことがあるのだが、はたしてコミック界はすでにその方向へと動き始めていた。

 

それはさておき、飯はなかなか食えていないけれども、プロの最後尾を走っているという自負だけはある自分にとっては、大衆受けする大したことのない作品と、優れているけれども大衆には受け入れられない作品との差異を感じるたびに、大いに落胆を覚えることが多い。

 

一時幻冬舎や宝島がやっていた、新聞の3段ぶち抜きの大広告を打って、これこそが今年いちばんの大作! との煽り文句や推薦の言葉をこれでもかというほどぶち込んだ作品を、盲目的に買ってしまう大衆の多さに、正直幻滅を感じたものだった。

 

今や趣味の多様性や、その手の広告を打ってもつまらないものはつまらないと、さすがに気づいた大衆によって、そうした営業方法は通用しにくくなっているが、それでも図式としてはいまだに根強いものを残している。

「~万部突破!」

という文字を躍らせるために、映画やTV業界と連携し、場合によっては作品の最初から出版社、映画会社、TV会社がタッグを組んで綿密な打ち合わせをして、作品を「生み出す」という手法は、いまや常識となっている。

 

これだけ書店に本があふれる時代となっているから(自転車操業をしないと、大手出版社といえども取次にカネを払えずにつぶれてしまう時代に突入しているのだ。とっくに、だけど)、なにを買っていいのかますますわからなくなっていることも事実で、そうした面から言えば、大衆――一般読者も引っかかってしまっても致し方ないとは思うのだが、それを差し引いたとしても、自分の目で見て、世間がなにを言おうがこれは面白いとかつまらないとかいう選択眼を養っていない人間が、出版社などが仕掛けた巧妙な作戦に引っかかってしまうのは、情けないというほかない。

 

もちろん、こんな偉そうなことを書いている僕の作品が、では売れなくても優れた作品なのかと言えば、自分でも足で踏みつけて投げ捨てたくなるひどい作品で、なおかつ売れないのであるが…… (-ω-;)。

 

読者はバカじゃない、バカにしちゃいけないというのは、出版社時代に叩き込まれた教えではあるけれども、実はその裏には、やっぱりバカもいるよねーと考えざるをえないような存在があるのも事実で、しかしそれを肯定してしまったら、ろくな出版人が育たないという戒めのひとつに過ぎなかったのではないかという気が、会社を辞めてから感じるようになってきた。

 

こうしたことについてはまた別の機会に論じることがあると思うけれども、昨今、「良い本」というのが、ますます売れなく、悪貨に駆逐されてしまう時代になってきたなと、嘆息するばかりである。