✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■7/20(土) 断酒992日目 ①先生の思ひ出。「末期の鰻重」

■何気なくテレビのスイッチを入れたら大村昆氏の旅番組をやっていた。

御年82歳だそうだ。

僕が小学生時代に見た時と、ほとんど変わっていないのがすごい。

その大村氏、古くから先代の女将可愛がってもらっていたという能登の旅館に泊ったのだが、夕食に並べられたこれでもかと言わんばかりの品々を見て、

(ああ、僕はまだ50歳代なのに、こんな料理はもう食べられないんだな)

と、ふと思った。

淡々と。

量も質も、無理な体になってしまったのだ。

でも、最期だけは、こうしたきちんとした和食を、ひと箸ずつでもいいから口にして死にたいと思った。

スイスで安楽死の注射を打ってもらいたいという希望があるけれども、うーん、この和食も捨て難いなあ(^◇^;)。

スイスに生く前に食べて行くしかないか。

 

■それで思い出したが、我が終生の恩師である前田治男先生にこんな話を聞いたことがある。

先生は、國學院大學に残っていさえすれば、20歳台から教授になっていてもおかしくないと言われた俊才であった。

そうした才能のある、しかもハンサムな若い学生にしか興味がなかった折口信夫氏が、前田先生を自分の研究室に入らないかと声をかけてきて、先生は這々の体で逃げ出し、別の有名な国学者の研究室に逃げるように入ったのである。

なにしろ折口信夫氏は、天才であると同時に、自分の気に入った男子学生と同衾することに、なんらの罪悪感も持っておらず、堂々と自分の家に住まわせて、毎晩のように愛欲の日々を送っていたそうだ。

 

折口信夫しの魔手にかかってしまった学生が、別の教授から、

「君、男同士という関係はふつうではない。すぐにでもやめなさい」

と忠告したそうだが、それを聞いた折口氏、

衆道というのは、我が国の開闢以来連綿と受け継がれてきた美しい文化のひとつである。なにを羞じる必要があるか」

と憤然としていたそうだ。

 

■さて毎度のように話脱線。

なんのことはない。前田先生が、ガンに冒されてあと一ヶ月以内に死ぬだろうと医者に宣告されてしまった戦友だったか学友だったかの見舞いに行った際、

「最期になにを食べたい」

と聞いたところ、友人は悪戯そうに

「鰻重」

と即座に答えたそうだ。

前田先生は、当時最高級と言われた店から特上の鰻重を持ってこさせ(野田岩? あるいは昭和天皇がお気に入りだったという伊豆榮?)、戦友はそのかぐわしい匂いに誘われるようにベッドの上で上半身を起こして、無我夢中で食べた。

当時の病院は今からは考えられないほど厳格な権威主義で、個室内に食べ物を持ち込むなど御法度であったそうだ。

居丈高に文句を言ってきた看護婦(そりゃ蒲焼きの匂いを嗅げばすぐにバレただろう)を個室から追い出し、ちょうど上がった月を窓ガラス越しに見上げながら、二人とも黙々と箸を運んだそうだ。

すると奇跡が起こった。

なんと数日後のレントゲン検査で、ガンの病巣がすっかり消えてしまっていたのである。

「やはり人間の病のほとんどは、ストレスから来るもんだねえ」

と、夏休みの合宿地である伊豆の禅寺でおっしゃっていたことを思い出した。

 

この先生、日本が現在のような健康ブームになる前から、ましてやその手の本など存在しないような昭和の時代から、健康法には詳しくていらして(なんでも詳しいのだが)、同窓の友人たちと伊豆の白田温泉だったと思うが、冬の旅行に出かけた際、先生が肩まで湯に浸かっていないのを不思議に思った僕が、

「先生、それじゃ寒いでしょう」

と言うと、

「へそから上まで湯に浸かると、体に良くないからね。もちろん、最初寒い時は肩までつかってもいいんだよ。ただし1分ぐらいだね」

とおっしゃったことがある。

つまり、もう50年も前から半身浴を実行していたわけで、それは日本や中国の本に書いてある古い健康法だったのか、とにかく詳しかった。

なんのことはない。

ただ、そんなことがあったなと、思い出しただけのことである。

 

その後先生の友人はめでたく退院となり(医者は最後まで首をひねっていたそうである)、それから何十年か生きて、天寿をまっとうしたという。