✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■6/22(土) ②こりゃ、あんまり長くはないな。

■朝食を終えてしばらくしてから、また脳細胞が膜に包まれ始めた。

これは……

4月頭に倒れてから、ほとんど筆が中断してしまってから、あっという間に3カ月。

来週火曜日から復帰しようと思っていたのだが、もしかするとこの状態ではダメかも知れない……

 

「もう肝炎のことは心配する必要はないよ」

闘病を始め、断酒してから2年半を過ぎ、ようやくその段階まで来たかとホッとした矢先にぶっ倒れた。

主治医の野村先生は、肝臓の数値は合格点だからということでそう言ったのだろうが、たぶん肝硬変でどのぐらいの細胞が死滅したかについては把握していないのではないだろうか。

CTなどでわかるものではないのか、先生の出身母体であるchigasaki市民病院に紹介状を書いてくれないか聞いてみようか。

もちろん何分の一が機能しなくなっているということを聞いて、どうなるものでもないのだが……

 

肝硬変にはご存知の通り、代償性肝硬変と、非代償性肝硬変の2種類があるのだが、先生の見立てでは、僕は代償性肝硬変であると。

これは生き残った肝細胞が、死んだ肝細胞の代わりをして何とか必要な働きをしている段階。

しかしこの段階にもステージがあるのは当然で、僕の場合は本当にぎりぎりで非代償性肝硬変までは到っていないという段階なのだろう。

(黄疸、腹水、肝性脳症という、非代償性肝硬変と診断する症状を3つも持っていたのだから、本当に限りなく近かったんだろうと……さらに進むと、非代償性肝硬変と言って,、もはや手の施しようがないに近くなってしまう(若干あるらしいが)。

 

そして最後に待っているのが肝臓ガンである。肝移植を受けることでもできなければ。

 

よって、冷静に考えてみても、僕の場合、さほど寿命が長いことはありえないだろうと思う。

しかし生まれて物心がついてからこの方、とにかくヒサンなことが多くて、楽しいことはあまりなかった人生なのだから(それでも楽しいことをたくさん覚えているのは、いかに自分が楽観的で明るい性格だったか)、それも生まれついた運命だと思って甘受する覚悟は出来ている。

 

ただし、未練が4つばかりあって、

1)娘が社会人になるまであと4年半。長期留学でもするなら5年半を生き抜いてやりたいということ。少しでもこの世にある時を大切にしたいし、

(ああ、これで娘もなんとか食べて行けるだろう)

と安堵しなければ、この世に未練を残してしまう。

2)痛いのはイヤ(^◇^;)。なんとかスイスで注射をして自らの意志であの世へ旅立ちたい。

3)どうしても書きたい小説が1つある。これだけは完成させて、たとえ死後出版されようとも、あるいは日の目をみなくとも、どうしても僕にしか書けない作品を書き残したいということ。

(できればもう1作あるのだが……)

4)どにかくイヤな思い、大変な思い、大変だけれども貴重な体験、半酒乱・半精神異常だった元妻、離婚とそれにともなう子どもたちとの別れ(とりわけ小学校6年生だった下の娘が一時荒んだのも、お父さんがいなくなったという母親に対する反発だろう。だからなんとか埋め合わせをしてやりたいのだ)、高名な小説家や編集者を間近に見て触れられたこと、独りで遊んでいた少年時代、両親の毎晩のつかみ合い怒鳴り合いのケンカ、同じく肝硬変だった母の「寂しい」という最後の言葉……とにかくもう十分だと叫びたいぐらいの経験を味わってきた。

平凡な人生を送る人間に比べたら、何十倍もの体験だろうと思う。

だから最後だけは、杖をつきながら、誰かフィリピンでもインドでもナースさんを雇って、数ヶ月にわたってアメリカとヨーロッパを見てまわるか、気に入ったところがあったら最後の庵を結び、いざとなったらスイスへの自殺旅行にナースさんをともなって、現地で火葬してもらって、灰だけ日本に持ち帰ってくれる優しい女性と契約をして……子どもたちには内緒で多磨霊園のおじいちゃんの作った墓の下に入れてもらい、その女性がフィリピンに帰って何ヶ月か1年後とかに国際郵便を出してもらって、息子と娘に遺言状を送り、健康のこと、人生の泳ぎ方、「戒名をつけなければ」とおそらく弟は言うだろうが、クリスチャンだから要らないんだもんねーとか、細かいことを書き記したノートを送ってハイ、おしまいにしたいと思っている。