✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

小説家とライターとの間の太い線(その1)。

さて、小説家のなかでも違いがあるということについては触れてきたし、今後もその機会はあるだろうが、そこでいつまでも留まってしまっていても何だと思うので、大ざっぱに項目を進めて行こう。

まずは

「小説家とライターとの間に引かれる太い線」

について。

 

小説家とライターのどちらが偉いかなどという比較をするつもりはないが、小説を生業として生きていて、長年編集業にたずさわって客観的な目を養った(と思う)人間としては、多くのライターが

「できることなら小説家になりたい」

と思っていることは事実である。

言い換えれば、なりたいけどなれないからライターに甘んじている人間は多い。

もちろんライターの中には、それより数は減るだろうが、あるジャンルについての専門家として食べて行きたいと思っているグループもある。

これはとにかくライターとしてやっていけるのならどんな仕事でもやりますと思っている人間よりも格段に上の部類に入るだろうし、その専門性だけで言うならば、小説家もその足元にも及ばない。

つまりライターとひと口に言ってもピンキリなのである。

 

このライターの世界は、小説家の世界よりもさらに(はるかに)多岐多様だし、きちんと分類するのは困難だ(事実上不可能)。

だから以下では、きちんとした分類をするのではなく、あくまで大ざっぱに整理をし、気がついたことだけ記しておきたいと思っている。

 

まず言えることは、ある程度文章が書け、調べ物など資料収集をおこない、著名人以下会ったことのない人間に臆することなく電話をかけてコンタクトをとり、それをデータとしてまとめ、あるいは文章化までしてしまう……

こうした一連の作業ができるようになった時点ということを前提にしての話だが、

「ライターは小説家よりはるかになりやすい」

ということが言えると思う。

語弊を恐れずに言うならば、ではあるけれども。

 

先ほどライターと言ってもピンキリと書いたけれども、一流のライターは三流の小説家よりもはるかに実力が上だし、肝心の文章にしたって、ライターの方がずっと気が利いていて面白いということは珍しいことではない。

 

では小説家とライターの間の何に対して線が引かれるかと言えば、それは、

「無から有を作れるか、否か」

という、その一点に尽きる。