■4/30(火) 断酒911日目(130430)
午前3時過ぎ起床? 今日も不明。
ぼんやりとテレビをつけたりしながら、ざっといつもの運動。
しかし断酒の日数、いつ間違えたんだ?
■またうとうとしつつ、ごみをまとめ、昨日畳まなかった洗濯物をたたみ、その間アロマをやったりなど、めちゃくちゃ。
なにも考えていないが、それでもとりあえず動いているということは、昨日よりはマシのよう。
やはり1日おきに好不調の波が来るのかも知れない。だとすれば新しいクスリを飲み始めて今週で半月ということになるはず。これがクスリなしでも常態となってくれればよいのだが(本来体に抱負にあるらので、副作用はないのだと。ただなんらかの原因でこのクレアチンが不足する状況が起きてしまう可能性があると書いているサイトがいくつか)。
もうひとつ、甲状腺ホルモンの病気(男の更年期)というのは引っかかってこないのか聞いてみなくては。
ただ主治医の野村先生、肝臓の専門家らしくて、糖尿病の著作がないことがわかった(思い出した)。今後の様子によっては、先生以外に糖尿病やホルモンの専門医に診てもらった方が良いかもしれない。
しかしいずれにせよそれはまだ先のこと。
■以前、孤独死と孤立死との違いについてニュアンスを書いたけれども、今回の牧伸二さんもなにかそんなことがあったのではないか。
実態としては自殺なのかも知れないが、もう78歳まで生きていれば、何度も病気にかかってはまた悪くなりといったことが繰り返され、そのうちに、
「もういいか」
と消えたくなってしまう。
いや、消えたいという積極的意思すらすでに遠のき、ただひたすらこの世から消えようと思っていただけで、ましてや自殺しようなどという「欲望」があったわけではないのではないだろうか。
今回僕も、とりわけ体調がよくなってからの急変で、1週間ぶったおれ、その後も寝たり起きたりで半月つぶしてしまったのだけれども、その時考えていたことは、
(ああ、このままメールにもなにも出なくとも、誰にもわからいままあの世行きなんだろうな)
ということ。
娘はまだ浪人生だし、時おり思い出したように連絡をくれる先輩からの電話や、数人の友人・知人からのメール以外、外部との接触はまずめったにない。
なにかひとつやっては疲れて天井を見ながら、こうやって消えていくのかも知れないなとぼんやりしていたわけで、そこには死ぬだの生きるだのといった欲望はすでになくなり始めていた。
そんなとき突然耳にした訃報――
いちどだけご挨拶したことがあるし、母の関係で浅草とは切っても切れない因縁でづてがっていたせいか、あの浅草の寄席から伝法院あたり一帯にかけては、嫌いだけど心惹かれるという矛盾した気持ちを持っていた。
もしかしたら牧伸二さんも、すでにどこかで生死を超越していて、家族だけにわかるメッセージを伝えたくて、でも入院したらそれは強烈なメッセージでは無くなってしまうし――
という複雑な選択肢のひとつに過ぎなかった、そんな気がした。