✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■4月12日(金) 小説家となるためには、よりよい営業職でもあることもめざすべき。

どんな会社にもできる人間とそうではない人間がいると思うが、これは編集者もまったく同じ。

たまたま入社試験を通っただけで、編集者という肩書きを与えられてしまう。アメリカだったら、コピーボーイと言われるところだ。

 

こうした知恵も経験もない人間が、謙虚な姿勢を示しているのならまだいいが、そうではなく、いきなりおかしな優越感を持ち始めるのが困ったところ。

こうした人間にたまたま当たってしまったライターの側はたまったものではない。

とりわけ僕のように小説を書いている人間には、これは死活問題。

きちんとした経験を積んでいない、ろくな本を読んでいない、それどころか机に辞書の一冊も見当たらないような人間(今は時代が違って、パソコンを使っているからという言いわけは、たぶんほとんどウソだ)がたまたま電話に出て来て(経験のある先輩から「電話ぐらい出ろ」と言われるタイプがほとんど。意欲的にどんな電話でも出て優秀な書き手を探そうとするのはごく少数の有能なタイプ)、偉そうに

「このままじゃ使い物にならないね」

などと言い出したら、ちょっと一発殴ってやりたくなる。

 

実際大手出版社の編集者に作品を持ち込んだとき、

「そもそも小説とは……」

といきなりご高説をたまわり、途中で、

(ああ、ろくでもないやつに当たっちゃったな)

と大きな大きな息をつききそうになった。

 

話がひととおり終ったあと、当時書きたかった(いまでも熱烈に)、洋モノ風のアクションとか広義のサスペンスであるとかについて、

「最近どんな映画を観られたんですか。あるいは本を読まれたんですか」

と尋ねたら、

「いや、僕は洋モノはあまり読まないし、映画も観ないんだよ」

と来た。

心底腹がたった。

それまでのご高説は、いったいなんだったのか。

 

間違いなく、「なんやかんや」言われるところの日本特有の「私小説」好きであり、文学青年であったろうと思う。

広く知ろう、見聞を深めようという姿勢もなく、何十年もやってきたというのがありありで、間違いなくこの男も、入社して間もなく編集者という肩書きというか、名刺をもらって勘違いしてしまったのだろう。

 

このような編集者とも言えないような男に会ったのが運の尽きで、1年だか2年だか、心血を注いで書上げた作品がろくな読まれ方をされないまま放り出されてしまうのだから、罪は大きい。

 

もちろん持ち込んだ側の能力が低い場合もあるが、優秀な編集者に問題点を指摘されると、不思議と納得できてしまうのである。

(ああ、確かに反論のしようがないな……)

と。

そしてなおかつまた暖かい。

厳しい意見を吐いたあとで、いつでもいいからできたらすぐ連絡しなさいとか、よほど出来が悪くなければ、しばらくはつき合ってくれるものである(仏の顔もなんどやらと言うけれども)。

 

だから、なにも臆することはない。

ダメ編集者は、どこまで言ってもダメ編集者であって、たまたま自分の運が悪かったまでのこと。もしくは相性が悪かったということもあるのだ。

そして、また別の出版社に電話を入れて会いに行く――

つまりはアポをとって製品を見てもらいにいく外回りの営業となんら変わらないのだ。

あとはやる気と忍耐。

なんとか章を受賞したからといって、その作品がすばらしいとも限らないし、たまたま良い作品だったけれども2作目がまるでダメだったということなど、珍しくもなんともないのである。

 

めげずに営業を続けるかどうか、電話をしつづけるかどうか。

小説家志望は、よほど高名にでもならない限り、営業の精神を忘れたとたんにそこで終るし、あきらめなければいつか「商品」を買ってくれる人間も出てこようというもの。

それ以上も問題でも、それ以下の問題でもない。

そしてダメ編集者はダメ編集者以外の何物でもないのである。