✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■2/19(火) なにを書いているんだかわからなくなるのも職業柄。

本業が書く仕事にあるから、ブログで気の利いたことはなかなかかけない。

というより、本業で力尽きてしまって、書きたいと思うことはあるのだが、つい億劫となってしまう。

別の仕事であれば、もっといろいろアイデアはあるんだけど。

まあ、職業病。

 

 

■職業病と言えば、写真・カメラについてもそう。

写真や絵画は大好きで、心打たれる作品の前では動けなくなってしまうこともあるし、文章とは違って、理屈抜きで魂が洗われたような気持ちになることもしばしば。

しかし編集者としての仕事を17年間続けていたから、

「自分で撮る」

ということにはなかなか結びついてくれない。

編集者にとっては、一枚一枚の写真への感情と、それらをどのようにならべ、どのようなデザインにしたらよいかデザイナーと意見を交換しといった編集作業とを、同時に処理しなくてはならないからだ。

だからデジカメとかトイカメラとかが欲しくても、つい買い物の優先順位が下がってしまうのは、

「撮影はプロにまかせて、自分はそれを鑑賞する立場」

であるからだと思う。

逆立ちしたってプロのカメラマンの写真にかなうわけはないのだが、そのレイアウト的、デザイン的総合力に関してはカメラマンとは時に意見を戦わせなければならない立場だったから、どうしても一歩引いた感覚になってしまう。

たとえばロケに行って、カメラマンはある空間や時間をフレームのなかで切り取るわけだが、編集者やデザイナーは、その空間や時間を、他の空間や時間と頭の中で結びつける作業をしてしまうから、なかなかのめり込めない、入っていけないのだ。

 

(ここにもなぜ自分はミュージカルが苦手なのかの一端もあるのではと気がついた。編集者は、例えば被写体のモデルとストレートに対峙するわけではなく、その生身の部分を瞬間的に切り取った作品として見るクセがついているのではないかと。

つまり極端な言い方をしてしまえば、〝生身が苦手〟なのではないだろうかと思う)

カメラマンやイラストレーターなどは、ヘア&メイクやスタイリストの力を借りながら、被写体のもっとも肉感的な部分を作り上げ、作り上げた上で一枚の時の流れとして切り取ってゆく。編集者やデザイナーは、その一枚一枚を並べて、再度連結させてゆく作業だから、時間の流れがまったく違うと思う。

そこにおいて、スクリーンに踊り手が登場し、観客である自分へとなにかを訴えようとする姿勢が、どうにも生々しすぎていけないのかも知れない。

一方でアクション映画であるとかラブロマンスであるとか、自分自身を投影しようと思えば可能な映画は好きであるという理由にもなっているのではないかと思う。

生身の人間に自分を投影するなど、それは写真や映画と対等な立場で語り合い、恋をし合い、時にはセックスもしてしまうという、客観的であらねばならない立場にある者としては、もっとも唾棄すべきアプローチの方法であると思うから。

実際、モデルやタレントと日常生活のなかでも恋人としてつき合うのはカメラマンであり、編集者はそれを遠巻きに見ているという構図は、数え切れないぐらいあるものであることを経験してきたし)

 

 

とまあ、またくだらないことばかり書いている僕は、本業が8ページしか進まず、そろそろ12ページぐらいまでスピードアップしなければならないというのに、もうあと2ページ書いたら気絶しそうという体たらくである。