✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■12/27(木) 決してペシミズムではなく――けれども暗澹たる未来。

DVDを返しに行ったついでに、テラスモールをウインドウ・ショッピング。

ありゃ。

最後の商戦とあって、いろんなものを特売したり何パーセント割引とかしてる。お金あったら買いたい物もあったけど、美味しそうな鮭の麹漬けだけ買って帰る (-ω-;)。

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朝書いたけれども、しかしこんなふつうの日常も、はたしていつまで続くんだろう。

グローバル経済というやつが地球上の全人口を巻き込み、これまで通りにやっていたら、もはや日本はやっていけないんだから(日本だけじゃないけど、産業の強みもなくなっている現在、技術力と品質の高さでやってきた日本はとりわけ苦しいかと)。

 

むかし、問屋というのが幅をきかせていた時代があった。

もう、問屋が仕入れてくれないとメーカーは困るし、小売店も問屋仲間の会員にならないと商品を仕入れられないなんていう、江戸時代とほとんど変わらない商習慣が厳然として存在していた。

 

ひどい話だが、元妻の長年の友人(エホバに入信して娘の手術も輸血なしでやって、一時危篤状態となったことからキレた元妻との間で言い争いになり、出入りがなくなった)の実家は、浅草近辺のお茶問屋だったが、話を聞いてみて驚いたのは、

「実際に商品の流通はない」

ということなのだ。

どういうことかというと、小売店からの注文が入ると、そのお茶問屋は商品を取引先のお茶のメーカーに発注して、商品を自分の店の名前で届けさせ、自分の方はそこに利益を上載せして振り込まれた代金にこれまて店の印判を押した領収書を渡していたのだという。

つまりそのお茶問屋がなにをしていたかというと、電話と伝票を書くという、たったそれだけの仕事しかやらなかったのだ。それで家族全員が食っていたわけである。

 

もちろんそうした因習が長続きするはずもなく、問屋は次々と行き場所がなくなり、衰退していった。バタバタと倒産したのは、客もメーカーも、

「問屋なんかいらないじゃないか」

ということに気がついてしまったからである。

これに加えて、ネットでの販売が追い打ちをかけ、同時並行輸入なんかも流行ったりして、問屋の殿さま商売の息の根は止まった。

(しかし一方、ネットショップを立ち上げることでかえって息を吹き返した問屋もあるそうだから、なにが幸いするかわからない)

 

そうしたことが、いまや世界中でおこなわれようとしているのだ。

ネットでつながることによって、僕もニューヨークのデザイナーが作ったTシャツを買ってみたことがあるし、ブッシュ大統領のキャップも持っている(^◇^;)。

ひと昔前だったら、想像もつかないような商いの形態だ。

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その「物」が「人」に変わるのは時間の問題でしかなかった。

年収800万円ももらっている日本の会社の課長や部長は、もっと優秀で英語も日本語もべらべらなんていう中国人を、半額の年収400万円で雇えるとなったら、どうなるだろう。

答えは明らかだし、それがますます日本の国内で進んでいくことは間違いない。

 

生き残るとしたら、日本人にしかできない商売や製品であり、逆に世界に通用するものは低コストの国に追いつかれて苦しくなる。

これはかつて、富士通やNECが、自社のパソコンの品質の高さに油断をして、マザーボードの開発を台湾にすくわれる形で持って行かれ、当初はそれを鼻で嗤ってバカにしていたものが、いつの間にやら台湾のマザーボードにシンガポールのサウンドボードを輸入して組み立てなければ、とても太刀打ちができないということになってしまった。

 

こうなってくると、個々人の努力だけではいかんともし難い面がある。

とりわけ「つぶれない」はずの中堅~大企業に勤めてきたサラリーマンやOLたちにとっては深刻な問題であり(日本にバンカーはいないという意味において、日本にビジネスマンもビジネスウーマンもほとんど存在していない。大半は会社から言われた通りのことを、上司の顔色をうかがいつつ進めているだけである)、ヘタをすると、日本のサラリーマンやOLの大半が外国人上司のもとで英語で会話をするということが、この国内でさらに進んでいくことになり、挙げ句の果てはアメリカのように、人員削減でスパッと首を切られるようになることは、「後追い日本」なのだから当然来たるべき姿だろう。もはやそこには、温情もへったくれもあったものではない。

わずかに独立独歩で苦しい思いをしている小集団が、そうした純日本企業として良い遺伝子を継承していくぐらいだろう。

 

そんな時代に、息子も娘も社会人として巣立っていく。

暗澹たる気分となる。

今の30代から下の世代が苦しんでいるのを見ていると、だいじょうぶなのかとても心配になる。

 

日本が新たな価値観だの国家経営のあり方を世界に示さない限り、世界の不幸、とりわけアメリカの不幸は、それこそツナミのように日本に押し寄せてくるだろう。

経済の専門家じゃないから、どうにも出口か考えられないのだが。

(ようやく考えついたたうちのいくつかは、子どもたちが拒絶してしまった。若い時は自分だってそうだったろうと思うと、それ以上無理強いもできない。これについてはまたいつか書くことがあるかも知れない)。

 

新しい価値観というのはなんだろう。

新しい国家経営とはどんなことなんだろう。

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