✨どしゃ降りだっていいじゃないか。最後に晴れれば✨

小説家・小宅高洋(新ペンネーム)のひとりライフ。

■ 10/14(日) ③みんないなくなる……謹んでご冥福をお祈りします。

早朝寝直して、アラームもかけないでテレビ体操の直前に目が覚め、自然と体を動かすことに。

これだけ疲れているのに、なぜかもうすでに定着しつつあるらしくて、さぼろうかなんて思わずに淡々と体操をこなしている自分に驚く。

 

その後、お茶を淹れて雑誌などみながらぼうっとしていると、丸谷才一先生がお亡くなりになったことを知って愕然とする。

 

作家の丸谷才一さん
 

 豊かな教養を背景に「笹(ささ)まくら」や「たった一人の反乱」など、知的で明るい物語性に満ちた小説を書き続け、評論や翻訳でも知られた作家の丸谷才一(まるや・さいいち、本名・根村才一=ねむら・さいいち)さんが13日午前7時25分、心不全のため東京都内の病院で死去した。87歳。葬儀は近親者のみで営み、お別れの会を後日開く。

 山形県鶴岡市生まれ。東大英文科卒。自然主義が重んじられる日本の文壇に反発。1952年にはグレアム・グリーン「不良少年」を翻訳、64年にはジェームズ・ジョイス「ユリシーズ」を共訳し、注目された。暗くじめじめとした私小説的文学風土を敢然と拒否し、軽快で面白い長編市民小説を自らの目標とした。長編「エホバの顔を避けて」(60年)でデビュー。徴兵忌避者を描いた長編「笹まくら」(66年)は高い評価を受けた。「年の残り」(68年)で芥川賞を受賞。

 その後も「たった一人の反乱」(72年、谷崎潤一郎賞)、「横しぐれ」(74年)、「裏声で歌へ君が代」(82年)、「女ざかり」(93年)、「輝く日の宮」(03年)など話題作を次々に発表した。昨年も「持ち重りする薔薇(ばら)の花」を刊行。今月7日に倒れる寸前まで新作に取り組んでいた。

 

僕自身は数度しかお会いしたことがなかったが、死んだ父とは新潟三高で同期だったこともあり、前妻との結婚披露宴では祝辞を読んでくださった。

ご自宅までお礼に伺った時には、親しく声をかけていただき、貴重なお話をうかがうことができたし、母が若くして死んだときにも、実家に真っ先に駆けつけてくれたのは先生だった。

 

父が病床にあるときには、

「彼の弱った姿を見たくない」

からとおっしゃって、お見舞いに来てくださることはなかったが、父の死後、胸を打たれるような弔辞を読んでいただいた。

 

戦争間近の新潟で、雪の降る日に父と並んで帰宅する途中、

「このままじゃ日本はダメになるぜ。あんな軍部の連中に、日本をゆだねるわけにはいかない」

などと、三高の制服を着、マントをはおりながら、将来を憂えつつふたり悄然と歩いた日があったことなどを知った。

その後先生は帝大文学部の英文科に進み、父は同じく帝大文学部の史学科に進んだ。

いよいよ特攻隊員として招集される直前だったと聞く。

 

こうやって、大先輩や先輩、同期の人間たちが、次々と姿を消してゆく。そんな年齢になったのだと、先生のあの温厚な笑顔を思い出しながら、そんなことを思っていた。